アートは壁に掛けられ、鑑賞されるだけのものではない。売られたり買われたり、世界を舞台に活発に流通し、悲喜の物語を生み出す。時に人の人生を変えてしまうような、驚くほどのパワーを持つ“生き物”なのだ。
人類の歴史において、芸術は通貨よりも前に存在した。有史以前から人は洞窟や、小屋や、城壁にモチーフを描き、そこに固有の民族が存在したことを示した。美術品をつくらせた君主から、それを見て畏敬の念や連帯意識を抱いた農民まで、社会のあらゆる階層の人々にとってアートは不可欠なものであり、彼らにとってアートとは、実際の風景を除いては唯一の視覚的な刺激だっただろう。しかし時代が進み、次第にそれは富裕層のための贅沢な刺激物となった。液晶画面や街のネオンと同じ、視覚を刺激するアイテムの一つというわけだ。
美術館に恭しく飾られているアートを、ひと目見ようと作品の前に群がる人々。鑑賞者はアートを通して、何を感じ、何を得ているのだろうか。アートの目的やアーティストの役割は、家、ギャラリー、美術館といった伝統的な“箱”に入れられたユニークなオブジェなのだろうか。
本書ではアメリカのアート業界で活躍する著者は、アートには3つの特質があるとし、商業的価値、社会的価値、本質的価値の側面からアートの価値について考察している。著者の考えを見てみよう。
商業的価値
美術品が高額で売れたというニュースがいつも話題となる背景にあるのは、日常生活において特にアートは必要不可欠なものでないという、一般的な考えがあるからだろう。アートには実用性がなく、生きていく上で特に不可欠なものでもない。購入した家、車、衣類などは、どんなに高価なものであっても、これらは日々の生活で役に立つものだ。不動産であれば、土地の数と立地条件の良さが価格に反映されることは理解に容易いが、美術品となると、大抵の人は価格の判断基準を持たない。哲学者のプラトンでさえ、アートの価値は「ミメーシス」、すなわち現実の模倣に過ぎないと考えていた。
さて美術館の市場価格を理解するには、来歴・状態・真贋・露出・クオリティの5つの要素を把握する必要があるが、真贋性やアートのクオリティといった側面以上に、来歴や露出といった付加情報、つまりマーケティング戦略が価値が決まることがほとんどだ。
たとえば、かつて有名な美術館が所有していた作品は、類似作品に比べて価値が高いとされるし、優れた審美眼と見識で知られるコレクターの所有という事実も作品に与える付加価値は大きい。あまりに評判の悪い所有者は、重要文献等に所有歴がはっきりと記録されていない限り、事実上、来歴から排除されることもある。また過去に作品を取扱った画商や画廊、オークションハウス等の名前も含まれ、出品されたオークションの詳しい日程や、コレクターが所有した年月も記載される。所有者の来歴以外に展覧会出品歴も提供され、美術館で開催された重要な展覧会に何度も出品されている場合は、作品の評価が上がる。本や雑誌における作品の紹介も同様で、作品の図版が掲載されていればなお良い。そして最も重要なのは、カタログ・レゾネ(いわゆる作品総目録)にきちんと記載されているかだ。
作品が展示され、議論され、雑誌に書かれ、購入されていくことで作家の評価が確立すると、作品も人気の高いものと、そうでないものに分かれてくる。美術館は、所蔵する人気の作品の画像を商用・教材用に用意するため、作品の知名度はますます上がる。このような作品は代表作として知られるようになるが、美術品の取引上で「代表作」という言葉には高値がつく。クオリティは別として、作家の代表作や典型作を好むコレクターが常にいるのだ。ピカソの作品についての知識が十分にない者には、10歩下がった距離から誰が見てもすぐにピカソだとわかればいいのだ。
投機家は、美術品が鑑賞する楽しみを与える一方で、美術品は資本的資産でもあり、他の金融資産と同様、価格の上昇により利益を生むことを魅力に感じているだろう。個人が長年所有していた作品が市場に出てきた場合、「発見された」という表現を使う。今日コレクターと呼ばれる人たちのほとんどは、チャンスがあれば惜しみなく高額を払うのだ。
高い金額で購入した作品が、その後購入価格の何倍にも値が跳ね上がったことを知り、喜ばない者はおそらくいないであろう。しかしそれは、本物のコレクターにとっては、気に入った作品を探し当て、鑑賞し、所有することができる感動と喜びに、たまたまついてきたボーナスのようなものに過ぎず、決して「目的」ではないのだ。
アートにとって、ブランディングは重要なポイントであり「ダ・ヴィンチ」も「ウォーホル」もブランドだと言えるだろう。ブランディングが成功すると、よく考えなくても、人気アーティストの作品は良いに違いないと思われる。かつては作品の意味や解釈の考察が求められたが、今ではブランドの独自性を強調する裏付けが見出されるに過ぎない。
美術品の商業的価値が直接的な観察に基づいて決まることなどほとんどなく、大抵は相対的に決まっている。
社会的価値
印刷技術がいかに発達しようと、本物の色やテクスチャー、そしてそのスケール感は、印刷でもコンピューターの画面上でも再現することはできない。実物を見ないでアートを学ぼうというのは、バットやボール、グロープを触りもせずに、テレビだけ見て野球を習おうとするようなものだ。大まかな感じや、ある程度の原理はわかるかもしれないが、実際に野球をする時の感覚は絶対にわからない。
絵画、彫刻、ドローイングや版画といった作品見てまわるとき、友人や、時には知らない人とともに、相手の意見に賛成したり反論したり、考えたり、意見を言ったりするときに湧き上がる考えや気持ちは、家で画集を眺めたり、コンピューターの幻影を見ているよりもはるかにパワフルで複雑だ。
2~3時間潰すために一人で入った知らない街の美術館で、語りかけてくるような素晴らしい作品を目にすることもあるだろう。記念に写真を撮ったり絵ハガキを買ったりするだろうが、それはその体験を誰かと分かち合おうと思うからだ。何が見える?何みたいに見える?何を思い浮かべる?どんな気持ちになる? 私たちは話し、そして学ぶのだ。しかし今や展示室の中をみるとオーディオガイドにつながれたゾンビたちが歩き回っている。ガイドの説明に沿って作品から作品へと渡り歩き、その美術館の館長だか、有名な俳優だかが読み上げる言葉を鵜呑みにしているようだ。
あらゆる美術品は、個人の所蔵でない限り、大都市にある美術館の明るい展示室の上品な色合いの壁面に、適切な説明が書かれたラベルとともに飾られ、誰もが見られるようにすべきだという考え方は、社会で広く受け入れられている。作品の説明がなされ、より多くの人々が見ることができる。そして何よりも、偉大な芸術を未来永劫保護できるような温度調節や保存ができるのは、大きな美術館だけだという考え方が主流だろう。 コレクションの質を上げていこうとする美術館は、積極的に寄贈者を探している。美術館の館長やキュレーターは、寄贈者になってくれそうなコレクターとの交際に多くの時間を費やし、昼夜問わず食事に招くだけでなく、彼らのコレクションについて助言をしたりもする。これはコレクターにとっても明らかに利益になることであり、長い目で見れば、将来そのコレクションを寄贈されるであろう美術館にとっても好都合だ。
多くの美術館では、新しいパトロンを見つけたり、大抵が畏敬の念を抱くようなそのスペースの収益リターンを最大限に高めるために、アートとはほとんど無関係なイベントを開催できるようになっている。大都市に新しい美術館ができるともなれば、外国からの名士が招かれることも多く、後援企業は、大金を払って美術館の展示室でイベントを開催する。アーティストとコレクターとの間に立つディーラーは、今や彼らはこうした関係を左右できる立場にある。細心の注意を払って席順を決めたフルコースから、同じぐらい厳密に招待者を選んで、様々なイベントを行い、巧みに操るわけだ。
このような接点を背景に、社会的な交流の場に依存するタイプのアート、つまりパフォーマンスアートや体験型アートの誕生に結びついた。一点もので移動可能な作品から、制作風景、物、音、イメージ、テキストなどを取り込んだインターメディア表現をはじめとした、非永続的で収集ができないようなものの方向に広がりを見せている。
このような鑑賞者同士、アーティストと美術館ないしコレクター、あるいはアートパフォーマンスを通じたコミュニティの形成もまた、アートの社会的価値の重要な側面なのである。
本質的価値
ウォール街で多忙な一日を過ごした後、ネクタイをゆるめ、シングルモルトのスコッチが入ったグラスを片手に揺らしながらくつろぐ。妻と子どもはアスペンに行っていて、コックも夜はいない。ソファにゆったりと座りながら、当てもなく空中を眺める。1951年作の、白と黒で描かれた大型のフランツ・クラインの絵画に、次第に視線が注がれる。 「色のない作品なのに、1,100万ドル以上も払った」ともの思いに耽けりながら、靴を緩める。 「でも展覧会への貸出し依頼も来ているし、カタログの表紙に掲載されるかもしれない。そうすれば、価格がぐっと上がるだろう。そもそも、この絵は一体何を描いているのだろう?稲妻か?漢字の崩しか?私がこの絵を気に入っていることは確かだが、理由は皆目わからない。私は頭がおかしいのか?見れば見るほど、色々なものが見えてきて、その度にどんどんと好きになる。何と言うか・・・・・・生命力があり、エネルギーに満ちているようだ。素晴らしい。描かれて、もう 50年か60年経つんだろう?」と、延々続く。しまいには、言葉を使わない、絵との真の対話が生まれる。
私たちの多くは、美術を鑑賞する能力に自信がないため、解説を専門とする職業がたくさんある。しかし作家の言葉さえも、わかり易いか否か、表面的か否かにかかわらず、所詮は補足された説明だ。時には洗練された内容で興味を引くこともあるが、結局は、視覚での表現を最も得意とする者の言葉に過ぎず、作品が何を意味しているかを示すことではない。クラシック、ポップ、ジャズ、ロックなどジャンルにかかわらず、音楽は歴史や演奏のテクニックについて深い知識がなくても、抵抗なく楽しむことができる。専門家の説明も特に必要としない。
なぜ私たちのほとんどは、こと美術となると、専門家の説明なしには満足のいく鑑賞ができないと思うのだろうか。教育や本が提供するものは、情報であって感性ではない。私たちの感動を呼び起こすのは作品そのものだ。優れた作品は時や場所を超えて、私たちに語りかける力を持つ。美術品、特に古い時代の作品の意義を、単に作家の人生や生きた時代を解き明かすパズルとして扱うことは、作品の本質を無視することといっても過言ではない。
たとえばモナリザのモチーフは、何百万人もの人々が目にしてきたわけだが、この作品が完成した当時、レオナルドのアトリエを訪ねて、「モナリザ」を最初に目にした5人と同じような体験ができる人はいるのだろうか。しかしこの作品の凄さというのは、氾濫したモナリザ像によって品格の略奪を受け続けてたにもかかわらず、未だにそのパワーが失われていないことなのである。
近くの美術館に行って、作家名や題が書かれたラベルは一切気にせずに、目に留まった作品をゆっくり眺めてみよう。よりよく作品を見ることで、第一印象や自分の直感に、自信が持てるようになるし、判断や直感はより確かになり研ぎ澄まされていく。あらゆる分野の美術品を真撃に鑑賞することで、様々のタイプの美術品に対する、直感的な反応も磨かれていく。特に好きな作家の作品を繰り返し見ることにより、それが絵画、彫刻、素描、版画であれ、作品の本質的な部分に触れられるのだ。
1本の映画を見るのに2時間はかかる。小説であれば、1時間読み続けることもあるだろう。絵を見る時は絵画を鑑賞する時は、どれくらいの時間をかけているだろうか?人が1冊の本を読み、内容を吸収し、その重要性やメッセージを理解する様に、同様の注意力、集中力、感情移入を持って絵画を鑑賞してほしい。
1点の絵画を1時間、強制的に見続けたとする。きっと、最初の10分はひどく退屈すると思うが、20分もすると次第に変化が起こり始める。作品について理解していたと思っていたことが、実際に目にしているものに塗り替えられていく。40分後にはすっかりその絵に夢中になり、時計を見ることを忘れているだろう。作家が1点の作品を完成させるのにどれだけの時間がかかったかを想像してみよう。
アートの価値
ある作品を、ぱっと見た時、ゆっくりと見直した時、1年後にまた見た時、一日家に飾っておいた時、どんな感情がわき起こるだろうか?自分が所有している作品であろうと、もう一度見たくなるような美術館にある作品であろうと、あなたが純粋に楽しめるアートというのは、人生を充実させることのできる宝物だ。
コレクターでない方がアートの商業的価値とは無関係でいられ、アートを純粋に楽しみやすい。それにもかかわらず、商業文化に踊らされている私たちの多くは、アートの金銭的な価値とクオリティを混同する。商業的価値がそれほどなかったり、さらに言えば、無名の作品を見過ごす危険を犯しつつ、高価だと聞かされた作品に引き寄せられてしまうのだ。
アートの商業的価値と社会的価値は、私たちの生活の中に共生している。結局、人は物の価格について話すことが好きであり、高額な美術品を所有していれば、人は興味を持たずにいられない。
一方で、アートの本質的価値は個人で楽しむことが理想的だ。アートの本質的価値を理解するには、商業的価値(作品が金銭的価値でいくらになるのか)や社会的価値(レオナルド・ダ・ヴィンチやマーク・ロスコなど作家の名声)を忘れて、静かに集中し、ただ作品を見ることであろう。
言葉は美術品を存分に味わう架け橋となると同時に、壁ともなる。どんな雄弁で学術的な批評も、ある言葉で全然別のものを言い表そうとしているからだ。辞書など存在しない。優れた絵画、彫刻、素描などの視覚媒体は、読んだり話したりできない言葉を使った創造物だ。目や頭、そしていわゆる心で理解し、私たちの内なるものが深く突き動かされる。
情報や他人の意見を聞いたりして、アートへの関心が芽生えることもあるだろう。しかしアートを本当に理解したり楽しむためには、リラックスすると同時に、よく注意を払い、先入観を捨て、自らの目を信じてアートに集中してこそ、できることなのである。
ものが言えなくなり、言葉にならない。それでいいではないか。音楽のように言葉のないものに向き合っているのだから。

