シンプルの言葉

本当に必要な情報なら、きっと今手放しても、後できっと巡り巡って私のところにやってきてくれるはず。満タンな心をちょっと整理して、隙間をあけておけば「へ〜!」「ほ〜!」と、色々なことに感動できる気がします。

やめることはやることの数を減らすということです。やることを少なくしながら、それでも残る何かこそ、自分が本当にやりたいことなのかも。やらなくてもよいことを手放していけば、その中にある、本当の自分と繋がることができるかもしれない。

すべては無に帰ってゆく。すべては滅んでゆく。すべては過ぎさる。残っているのは世界だけだ。続いてゆくのは時間だけだ。

人間とはやがて死んでゆく動物であり、そのことをわきまえており、本能以上にさまざまな欲望に左右され、理性以上にさまざまな感情によってつきうごかされ、思考以上にさまざまな幻想によって流され、知性以上に怒りに支配される動物なのだ。

本当に大切なことは、実はとても当たり前で、目立たないものなのかもしれないなあと思います。朝、駅員さんがにっこりと笑ってくれると、今日一日がいい日になる気がするし、おはよう!と笑顔を向けられることで、心が通い合う気がします。でも、寝不足で疲れがたまっている朝に微笑むことは難しいし、風邪で体調が悪い日は、眉間にシワがよってしまいます。
誰かのために特別なことをしなくても、ただ笑顔でいるだけでいい。でもそれが難しく、だからこそ大きな力を秘めている。

ものが多ければ多いほど、整理整頓にも管理にも時間と手間がかかります。そこにかける労力をできるだけ減らして、ものの代わりに自分の内側に蓄積した経験というリストのページをめくり、できることを探してみたいなあと思います。

買うという行為は、本当にそれが必要というより、「これを手にいれたら私の生活がちょっと変わるかも」という妄想に左右されるんだなあとわかってきました。
もちろん、一つのモノとの出会いで、新たな扉が開いて、暮らしがガラリと変わるという体験は、本当にワクワクできるもので、買い物の楽しさはそこにあると思います。
買っても結局使わない。そんな体験を生かして見えてきたのは、私たちの買い物は多分に「気分」に左右されるということ。

服も幸せも「探して」ではなく「出会って」手に入れるもの

「持っていない」ものを数えるより、すでに持っているものを「使う」人生を。

今日に余力を残しておけば、何かに気づく心を持てる。

常にアンテナを立てて、新しい情報をキャッチする、ということは大切です。ただ、ものを選ぶスタート全てが「誰かが言ってたあれ」「誰かが持っていたこれ」になってしまうと、自分でものが選べなくなり、物事の良しあしが見極められなくなってしまいそう。

労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。
「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」「余暇を自由にできるのだぞ」
そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。
きわめて限られた物的所有物のおかげで、日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである。

なぜモデルチェンジすれば物が売れて、モデルチェンジしないと物が売れないのかといえば、人がモデルそのものを見ていないからである。
「チェンジした」という観念だけを消費しているからである。

誰かと同じを求めると、あっちの誰かのことも、こっちの誰かのことも気になって、知っておかなくちゃいけないことや、手に入れなくてはいけないものの幅が広がります。
すると、いつまでたっても心が満たされることがない。

自分ではまわりに笑われまいとやっていることが、逆に「あの人、盛るのに必死だよね」と笑われる結果にならないとも限りません。
それよりも自分の内側に目を向けて努力を続けましょう。
それが本当の意味で自分を「盛る」ということです。

物質的な豊かさこそが人生そのもの。存在の証ととらえ、その量が多くなればなるほど安堵し、達成感を味わうのです。
欲求は尽きることを知りません。物質的なもの、儲け仕事、美術品、知識、アイデア、友人、愛人、旅行、神そしてエゴまでも、私たちは消費し、購入し、溜め込み、収集します。
友人を「持ち」、関係を「持ち」、資格、肩書き、メダルを「持ち」ます。
そしてその所有物の重さに押しつぶされ、常に欲望に縛られ、それが私たちをいつの間にか生彩のない人間に変えてしまっていることにさえも、気が付かないでいるのです。

我慢の怖いところは、次第に我慢に慣れてしまうことだ。

人はパンがなければ生きていけない。
しかし、パンだけで生きるべきでもない。
私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。
生きることはバラで飾られねばならない。

当たり前を一つづつ味わっていけば、心の中に本物の豊かさを積み重ねることができるんじゃなかろうか。

自分の人生をワクワクした方へと導いてくれるのは決意ではなく、出会いだということ。幸せは、自分の力でもぎ取るものではなく、ひたすら機が熟すのを待って、ぽとりと落ちる実を拾うことなのかなあと思います。

きっと私は若い頃、多くの中から「これ」と自分の目で選べる人になりたかったのだと思います。でも今は、目の前に美味しそうなものを見つけたら、素直に手を伸ばせる人になりたい、と思うようになりました。格好をつけるより、そのときを楽しめたらそれでいい。

知識と経験をアップデートし続けることで、新しい世界を知ることができ、新しい出会いも生まれ、新しい選択肢が視野に入るようになる。

そうすることで、選択肢がどんどん増えていく。選択肢がどんどん増えていくと、将来にわたり自分を見失わないという効果も期待できる。

結局、選択肢が増えることにより、あなたがあなた自身を見る視点が上がり、より自分を客観的に見ることができるようになる。

質の低いインプットは質の低いアウトプットを生むだけ。

上質なインプットからしか、上質なアウトプットは生まれない。

芸術鑑賞物ー鑑賞モード

娯楽ー消費物ー情報収集モード

このような区分が人々のなかに存在しており、だからこそ「観る」と「知る」は違う体験である、早送りで映画を見る人たちの目的は「観る」ことではなく「知る」ことなのだ。

シンプルであることこそが究極の洗練である。ーーレオナルド・ダ・ヴィンチ(芸術家)

多くの人は、1日のうち平均3時間もスマホを眺めています。

これは1週間のうちほぼ丸一日を携帯電話のために費やしている計算になります。

より生産的になるために、より多くのものを見ようとしています。

でも、そのせいで集中力を失い、毎日をフクザツにしてしまっているのです。

私たちが生きているこの世界に美しさという趣を少しでも添えることは、私たちに与えられた務め。

シンプルであることはすっきりとしたスタイルの鍵であり、かつ、人の心をひきつけます。

優雅な女性はクリスマスツリーのようには着飾りません。

妥協でモノを選ぶと、自分もその程度に。

真の満足を知るための授業料は安くない。

ほどほどによいものを処分し、完璧なものと取り替えること、たとえそれが多くの人の目には浪費に映っても躊躇しないことです。

完璧に身なりが行き届いている人は美しいものである。身に着けている宝石の価値がどうあれ、それが清潔でなければ、決して美しくはないのである。

からだは自分を宿す「住まい」のようなものです。 

手入れの行き届かない家は心地よくありませんね。

家と同じで、からだもメンテナンスをすることがとても大切です。

人生の質は、その人がどれだけ自分がなすこと、考えること、そして選択することに注意を払えるか、その度合いによって決まってきます。

そして自分が注意をそそいで行う行為は必ず発展をみせるのです。

劇場内の足元灯のような薄暗い明かりではなく、自らが放つ輝きのもとで生活しましょう。

持ち物は、からだが使い、こころを養ってくれるものであれば、それだけでいいのです。

具体的な生活の変更、具体的な行動の変化なしに、悩みを解決しようとするから、人生をこねくりまわして難しくしてしまうのである。

「欲しいもの」を選んできたはずなのに、なぜか家には「欲しいもの」ばかりが並んでいるわけではない。

現代の消費社会では自律的な欲求を持つことが非常に難しい。たとえば「フェラーリが欲しい」という欲求一つをとっても、その前提には「フェラーリは富裕層が持つもの」「フェラーリを持つのはモテる人」といった社会に存在するいくつものイメージがある。そうしたイメージを学習しながら、人は「フェラーリが欲しい」という欲望を持つことが多い。我々は価値や機能ではなく、意味を買っている。

人生にはたくさんの目的があるけれど、その先には何がある?と自分に問いかけてみると、違う道があることにハッと気づいたりします。仕事でどんなに評価を受けても、リタイアした後、どんな幸せな日々が待っているのだろう?と考えると、今この時の評価に一喜一憂することが、なんだか虚しくなったりします。
子どもがいい学校に行くことと、個性を伸ばして自分の道を歩くこと、どちらが幸せなのだろう?と思い巡らせれば、もう少し伸びやかな目で、未来を眺めることができるかもしれません。目的のその向こうまで視野を広げると、こうじゃなきゃという思い込みが解けていくような気がします。

その品物に価値を見出したから、自分のお金と交換することを決意し、購入するのである。そうではなく、また将来売れるだろう、値が上がるだろう、と見込んで買う、というのは、「自分にとっての価値」とは違うものに、判断が囚われている結果といえないだろうか。

食材などでも、一番良いものは有名料亭へ直行し、そこでグルメの客を唸らせるために使われる。破格の値段で取引きされるのだろう。その次は、お金持ちがどこかへ送りつける品として選ばれる。これも高く売れるルートがあって、良いものがそちらへ流れる。こういったところへ行かなかった、いわば落ちこぼれの残りものが、普通の市場へ流れてくる。最後はスーパマーケットに並んで、一般庶民が買うことになるのである。普通の店で普通の値段で買えるものとは、つまり、そういうものだと理解した方が良いだろう。自分が欲しいものを買っているようで、実は、二流、三流のものを買わされている、という状況にも見える。

もののパフォーマンスというのは、少し考えてみると、値段と比例して高くなるものではない。十倍の値段を出せば、十倍のパフォーマンスが得られるかというと、そんなことはまずない。高くなるほど、パフォーマンスは頭打ちになる。ほんのちょっとの違いしかないのに、高い料金を出さなければ買えなくなる。

ただそう感じるのは、そのジャンルの価値がわからない人間だから、という理由もある。

そのジャンルにどっぷりと浸かった人から見れば、その理屈になるだろう。一般の人には、十倍の値段の料理が十倍美味いとは感じられない。せいぜい良いところ二倍だろう、ということ。しかし、グルメは、それを十倍美味いと感じる能力がある人たちなのだ。

もちろん、だからこそ、その値段がついている。その値段でも買う人がいるということなのだ。

自分のやっていることが高級だとか低級だとかいうことではなく、自分のやっていることは自分にとって必要なことだと認識していく。 

必要か必要でないかという感覚は、いかにやるかということにかかっている。

背のびをすることと、上手にやろうと努力することの違いはここにある。

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