行動の言葉

クヨクヨすれば過去がなかったことになるなら、また先の心配がなくなるのなら、クヨクヨしがいもあるというものですが、そんなことはありません。
過去への悔恨も、将来への不安も、実体のない妄想に過ぎないのです。
そんなものに縛られて自由に行動できないとしたら、それほどばからしいことはありません。

昔の武士の社会には、失敗すると「お腹召しませ」と命じられることもありましたが、いまの世の中、責任を取らされたとしても、減俸、左遷、解雇がせいぜい。命まで取られることはありません。
かすり傷程度だと思えばいい。

もともと人間は、わが身一つでこの世に生まれてきました。
失敗によっていかに多くを失ったとしても、振り出しに戻るだけ。
そこから広がる可能性は無限です。

夢は「持つ」のではなく「掲げる」ほうがいい。
大きすぎる夢・目標は、持って進もうとすると重すぎて、ときとして前に進めなくなってしまったり、自分の身が押しつぶされてしまったりすることがあるからです。
遠くに掲げておけば、道標になるし、自分は身軽でいられる分、足取りも軽く進んでいけます。

やれる可能性があるやつが努力しないのを見ると、
胸ぐらを掴んで「俺と代われ」と言いたくなる。
23歳で白血病で亡くなった悠希さんが生前に残した言葉。

苦労はしたもの勝ち。
皆を元気づける”励ましの引き出し”が増えるから。

正しいか間違いかを判別する唯一の方法は「やってみること」

人間は「やったことがないこと」にしか出会いません。なぜなら人間は一回しか生きることができないから。
みんな初めての、一回しかない人生をぶっつけ本番で生きています。

本来はこっちのほうが正解とわかってはいるけれど、忙しい毎日の中では、常に正解だけを求めるわけにはいきません。若い頃は、正解以外に手を染めることが、なんだか後ろめたくて、自分で自分が許せませんでした。でも、まあまあ正解でも何とかなると知り、正解を諦めることのラクチンさを一度味わうと病みつきになりました。

私たちはつい、どこに向かって走り出したらいいのか、その目標を求めがちです。だから正解を知りたいし、幸せを定義したい。
でも、果たして目的にたどり着くだけがいいことなのだろうか?と考えるようになりました。
あそこがゴールと無理やり決めてたどり着いたら、心満たされるのか?と考えると、どうやらそうではないよう。
きっとそこにたどり着いたら、まだ先を見て走りだしたくなるはずだから。

ずっと備えてばかりいると、前に進むことができません。それからどうする?とその先を見通したとき、初めて人はその備えを使うことができるようになるよう。でも、果たして今、自分が何の準備をしているのか、自分の足元はなかなか見えないものです。そんな自分の立ち位置を確認する唯一の方法が立ち止まってみること。足を止めれば、自分がどこにいるかがわかります。立ち止まったら、その備えが本当に必要なのかどうか確認してみます。目的とは逸れた備えになっているかもしれません。

不要な備えを1つ、2つ手放すことは、自分が寄りかかっていたつっかえ棒を外すということ。するとより自由に身軽になって、ダイレクトに目的にアクセスできるようになる。そうすれば、やりたいことが叶う時間がもっと早くなる気がするのです。

ベストができないならベターでもいいと割り切ることも時には必要。

習慣を変えるには、時間がかかります。つい張り切ってガラリと変化させたいと思いがちですが、一つの習慣の前と後ろには、今までの習慣が繋がっています。
少しづつ変えて、前後と繋ぎ直し、試運転して確かめて、さらなる変化をプラスする。そんなプロセスが必要。

誰もが完璧に生きられるわけじゃない。全ての人がベストで生きていたら、みんなAIになってしまいます。誰でもできないことを持っていて、できる度合いが違うからこそ、一人一人の個性が生まれる。

できることを見つけるのは、自分という存在を愛おしむことなのかも。これだったらできるを拾い上げ、無理をせずベターな生き方をしていこう。

目的と行動がうまくつながらず、知らず知らずの間に大層遠回りしていることがたくさんあるようです。だからこそ、当たり前と信じ込んでいる方法やプロセスを、一度やめてみることも必要。そうすると、目的と最短距離で繋がる新しい方法が見えてくるかもしれません。

一度近くで一番の高級ホテルに足を運んでもらいたい。
平日の昼間からまるで異次元のような優雅な空間でアフタヌーンティを楽しんでいる幸せそうな人たちがいる。理想を理想で終わらせない人たちは確実に存在する。
夢を実現させた人は、夢を実現させる人同士の空間で生きている。
翻って、あなたはどうだろうか。
嫌いな人に囲まれながら、嫌いなことで人生を埋め尽くしてはいないだろうか。

あなたは今のままでは自分の夢が叶わないと薄々気づいてはいないだろうか。
薄々気づいているのなら、それがあなたの本音だ。
本音で生きることが幸せのスタートなのだ。

「背が低いから」と悩んでも、何の解決にもなりません。「あーあ、もう5cm背が高く生まれたらなあ」と悔やんでも、人は努力で身長を伸ばすことはできません。
だったらトップスとの組み合わせ方で履きこなす方法を考えたり、同じワイドパンツでも、自分に似合う幅を探す方が、ずっと建設的。

「初めて」は、自分の中からまだ見ぬ力を引っ張り出してくれる、大いなる方法なのかもしれません。
だとすれば、自分を「初めて」の環境に置いてみると、思いもしなかった新たな自分を見つけられるかも。

賢者とは、ぼくたちがたいていのばあい希望するか恐れるかしかできないでいるときに、行為するひとだ。
賢者とは、ぼくたちが普通まだないことがらを希望し、ないものやなくなったものを懐かしむことしかできないでいるときに、あるがままのものに立ち向かってゆくひとだ。

皆目見当がつかないことを、一歩一歩わかっていく方法は、やってみるしかありません。途中でやっぱり違ったと引き返すにしても、やってみないと、それが違ったということすらわからない。
もし間違えれば引き返し、また新たな方向へ歩き出せばいいだけ。

何を食べるかで、体調も、心の落ち着きも、頭の回転も変わってくる。でも、何を食べたら、自分の体がどう変わるのかは、やってみないとわかりません。

自分の思いどおりになるのは自分だけ

人生は「やってみなければわからない」ことの連続です。
やる前に「こうすればいいかな。ああすればいいかな。どの選択肢を選ぶのが正解かな」などといくら考えても、ほとんど意味はありません。
なぜなら「正解は一つではない」からです。
選択肢のどれを選んでも正解であり、そして「選んだ選択肢でいい結果が出るようにがんばる」というのがいいでしょう。

「後悔」をやめて「検証」する。
失敗を活かす一番の方法。

人間は歴史の目的を背負ってきた。与えられたものに満足せず、それを否定し、ひたすら進歩を目指して前進してきた。

完全なるスピードというものは、時速千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。だが、完全なるものは、限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、それはすなわち、即そこに在る、ということなのだ。

未来を「どうなるか」と予測だけでなく、「こうする」と決めて行動に移す。

その明確な意思が、自らの人生を形作っていく。

大いなる目標へ挑戦を開始しよう。

「10年後の自分」を心に描きながら。

「希望」とは”こうなったらいい”といった人任せの「願望」ではありません。

“こうするのだ”という一人立つ「信念」であり、”こうなるのだ”という不動の「確信」です。

あれになろう これに成ろうと 焦心るより

富士のように 黙って 自分を動かないものに

作り上げろ

悩み苦しみながらも挑戦を重ねる”現場”でしか自分を変えることはできない。

だが、それを実現してくれるのは”現場”ではない。

自分を変えるのは自身の一念と行動である。

昨日の自分と比べて

1センチでも1ミリでも

前へ 前へ 前へ!

その小さな積み重ねが栄光への軌道となる。

アインシュタインは人生を自転車に例えた。

バランスを失わないために、走り続けなければならない。と。

砂糖は甘く、塩は辛い。

それはだれでも知っています。

しかし、それは議論したり、考えたりしてわかるのではない。その甘さ、その辛さを知るには、まずひとくちなめてみることです。

体験の尊さはここにあります。

もっとも、体験といっても、しょせんはそれぞれ個人的なものであって、その体験が、いつでも、どこででも、だれにでも通用するものとはかぎりません。

しかし今日、体験を抜きにした、空疎な議論がなんと多いことか。

たとえ三センチ先がわからなくても、わたしたちはわたしたちなりの努力をしなければならない。人事をつくして天命を待つといいます。なににつけても、みずからの最善をつくして生きていくことが、人間としての尊い姿だと思います。そうすることが、悔いのない人生というものでしょう。

やりたいことであったにもかかわらず、あなたがこれまでに実践に移さなかったのは、あなたが、困難な状況と向き合うことをこれまで頑なに避け続けてきたからではないだろうか。 

「馬を水辺に導く事はできるが水を飲ませる事はできない」

多くの自己啓発書で「できるまで続けなさい」「成功するまで続けた人が成功者なのである」といったことを推奨している。 

私もまったくそれに同意するものである。

ただ問題があるとしたらそれは、「続けることができるか否か」の差だけである。

少なくとも努力を積み重ねることで、「成果」は保証されるとは限らないが、「成長」は保証される。その「成長」こそが、あなたの基礎となるものである。

惰性で生きてしまった日の記憶は、嫌な思い出として着実に脳の中に蓄積されていきます。それはあたかも、あなたの頭の中にまとわりつくほの暗い蜘蛛の巣のように──。 

 それは、自己肯定感を自らの手で下げてしまう行為です。

自分を自分で認めてあげられる日々とは全く正反対の行いです。

「やったこと」が失敗というのもありますが、やれば失敗でもいろんなことが学べます。 本当の失敗は、自分で決めたことをやらない、できないことです。

やろうと決めたことはやります。できないことはやろうと思わないし、やろうと思ったことはできることだと信じています。

幸せになりたければ、成果を上げたければ、あなたの人生のありとあらゆる分野で、今日も明日も明後日も、毎日毎日、楽しみながら行動しよう。

怒りにまかせて、自分がいちばん大切にしている物(人間ではありません)を思いきり投げつけて、めちゃめちゃに壊してみましょう。 

高価なお皿、精密な機械、取り返しのつかないような想い出の品などを、怒りのあまりに壊してしまったあと、その行為がいかに無意味で一時しのぎのものであるかに気づき、怒るという感情が実は自分にこれほどの損をさせるのだということを知って、 呆然となることでしょう。

「あ~あ、瞬間湯沸し器のようにカッとなって怒るんじゃなかったなぁ」と、こなごなに割れたお皿を片付けながら後悔する時、私たちは、怒りという貴重な感情を通じて、大いに学ぶことができるのです。

初めて赤ちゃんが立てた時、その時の親のその歓喜は、想像を絶するほどのものだろうと思う。 

そうやってできるようになった一つ一つのことを、庇護者である親が、心から喜んでくれるからこそ赤ちゃんは、また色々怖がらずに、なんでもやってみようという気になるのである。

「これをやってみたい」という想いをどれだけ表に出せるかによって自分のキャリアが決まるといっても過言ではありません。

たとえば「社長になりたい」でも「こういう仕事がしたい」でも良いのですが、まず表明することで周りから反応が返ってきます。それには「それならばやってみたら?」と賛同が得られるラッキーな場合と「何言っているの? まだ早いでしょう。」と言われてしまう残念な場合がありますがそのどちらであっても経験になるということがポイントです。

人間は窮地に立たされると、必死の思いでそこから抜け出そうとする。 

その時、人間の心は、必死になればなるだけ柔軟性を失っていく。

健康であれば、違った視点で物事を眺める余裕があるのに、病気になると、途端にそれができなくなる。

頑強な肉体でバリバリ仕事をしていそうな人でも、今にも消えそうな気の炎で寒々しく生きていたり、逆に病床の身でも熱く生きる希望の炎を燃やしている人もいます。

人生において果たすことのできる使命には、年齢制限や制限時間などありません。何歳になっても、どこにいても、この世を去るその瞬間まで、誰かのために何かをすることができます。

人は考えを変えると、行動が変わるのだ。  

変化は害を与えるものだと考え、それに抗う人もいる。だが、新しい価値をみつけられれば変化を受け入れられるようになる、と考えることもできる。 

すべて、どう考えるかにかかっているのだ。

世界には、一生が100回あっても経験し尽くせないくらいの面白いものがある。いろいろな場所に行ったり、いろいろな趣味を嗜んでみよう。

自分はもっと早く死んでいてもおかしくなかった。今の人生は余生とか余白みたいなものだと思えば、人生色々あるなぁと楽しむ余裕が出てくる。

「自分が何について知りたいか」という動機(検索ワード)を持つためには、ネットで見るだけでは不十分で、実際にその場所に行ったりして、リアルな体験をすることが必要だ。 

ネットはかなり発達したけれど、家でパソコンに向かってできるバーチャルな体験だけですべて満たされるということはまだ全然なくて、これからも旅や移動の重要性は下がらないだろう。

一つの場所にとどまらず、ときどき移動しよう。

バカの1つ覚えと言いますが、貫けば道は開けるのです。

若い人たちはよく、「やったってしょうがない。結果は分かっている。」と現実に対する無力感を表明する。 

しかしこの悲観論は決して現実に挑戦した結果として出てくるものではない。現実を自分の側から眺めて、現実はこうだと決めたことで出てきた悲観論である。

現代は現実に取り組む前に、現実についての情報が与えられる。そしてその情報に基づいて行動すると、行動の結果はその情報の正しさを確信させることになる。

しかし「結果がわかっている」から希望を捨てたのではない。希望を捨てたから「結果がわかって」しまったのである。

自分の人生に采配を振るうのは自分自身なのですから、うまくいかなくても、それは采配ミスではなく、単なる結果論。 

のちの采配に活かせばいいだけの話です。

采配はすべて、その時点での最善策を考えましょう。

いま、このときにしかない経験をさせていただいている。 

その経験自体は、いいも悪いもない。

今後の行動・努力しだいで、なんだってプラスになる。

自分の人生は、人に嫌われないためにあるのか。
それとも、やりたいことを実現するためにあるのだろうか。

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