或る3人の旅の足跡

芸術と革新性を融合させた稀有な存在として、そのプレステージ性を評価されている著名なメゾンを創設した今回紹介する3人には「少年期の旅」という共通点があった。

それぞれの生い立ちから旅の重要性を考えたい。


ジョンロブ(ブーツメーカー)

1829年のイギリス。南西部コーンウォールにある小さな町、タイワードレスの農家の間に、ある人物が生まれた。ジョンと名付けられたその男の子は幼い頃、不幸にも落馬により足を骨折してしまったことを契機に足が不自由になってしまう。

家業である農業を継ぐことができなくなったジョンは、近くに靴工場があったことから靴職人となることを意識したのだろう。父の勧めもあり、この工場の見習いとしてのキャリアをスタートさせた。これがジョンと靴作りとの出会いであった。

靴作りの技術を身につけていく中で、若く野望に満ちたジョンは大都会ロンドンへの憧れが募っていたのだろう。1851年、自信作のブーツを携えて、故郷コーンウォールからロンドンまで、400kmの旅に出る。足を引きずる身でありながら当時の整備されていない荒野を、勇気と希望を胸に歩みを進めたのだ。

その後の活躍は周知の事実だ。1858年から自身の名を冠する靴の製作を始め、1866年、37歳になったジョンは満を持してロンドンに初出店を飾り、その夢を叶えたのだ。イギリス王室御用達の称号と共に世界へとその伝説は広まっていった。

もしあなたがジョンロブの製品を手にしたならば、気軽に旅ができるようになった現代、ジョンがそうしたように人生という冒険の旅路の軌跡を刻んでいくような向き合い方がベストだろう。


エルメス(レザーアイテムメーカー)

1801年のドイツ。当時ナポレオンによってフランス領となっていたクレフェルドの町の酒屋の子としてある人物が生まれた。ティエリ・エルメスと名付けられたその男の子は幼い頃、酒場を訪れる旅人たちの馬車や馬具の世話をして父の生業を助けることが日課であった。真面目で手作業が好きなティエリの仕事ぶりは、丁寧で配慮が行き届いていたことから訪問客からの評判が高まっていった。

鉄道や自動車が登場する前の時代、馬車は重要な旅の手段であり物資の輸送手段であり、また貴族やブルジョワジーの権威の象徴であったため、馬具の仕事を身につけることは仕事に困らないばかりか、他の職人に比べて2-3倍の収入が見込めることを意味していた。

父の勧め、また訪問客の助けもあり、ティエリは13歳で故郷クレフェルドからフランスのパリまで500kmの旅に出ることになる。ティエリ少年はジョンロブと同様、夢へと歩き出したのだった。

パリに到着し、修行や下請けの日々を過ごし始めてまもなくナポレオンが失脚し、かつての故郷クレフェルドが再びドイツ領となる災難に遭う。フランス国籍を持って生まれたティエリは頼れる親族をなくし、自分の腕一つで生きていかざるを得ない環境へと追い込まれたのである。しかし異常なまでの完璧主義へのこだわりと職人気質から生み出される製品は非常に高く評価され、今やエルメスの名を知らないものはいないまでのビックメゾンへと成長した。

その根底にあるものは間違いなく職人へのリスペクトである。

たとえばシャネルはその功績から「女性の解放」で知られるが、実は女性を最も蔑んだ人物でもあった。

数多くの研究で明らかなように金銭面を多数の男性パトロン(当時のナチスドイツの将校を含む)に頼ったことで幾度となくスキャンダル問題を起こしたことや、縫製職人や従業員として大部分を占めていた女性社員を薄給で冷遇し続けたことはあまり知られていない。このことで1936年にシャネル社でストライキが起こるが第二次世界大戦が勃発した1939年にはその報復と称して全員解雇をしてアトリエを閉めるなどの対応をとっている。ファッション界での功績は輝かしいが、以降1954年に復興されるまで、シャネルの栄光は墜えたのであった。

一方のエルメスは有給休暇やボーナス、健康保険などを国に先駆けて導入するなど、従業員や職人第一のスタンスを守り続けた。それを象徴するのが1929年にはじまる世界恐慌の際のエピソードだ。

もともと負債を嫌い全て自前の資金で運営をしていたのだが、ニューヨークに支店を出すタイミングと不況によるクライアントの倒産や、すでに発注された内装の支払いなどによって負債を余儀なくされ、最も経営的に苦境に立たされた際、皆が苦しい生活を強いられる中、なんと取引業者と職人の全員が、3年間給与の支払いを待つ(無給で働く)ことをエルメス社に提案している。この関係者全員の気持ちに応えるため、経営陣は負債をすべて完済するまで一切給与を受け取らないことを誓い、一丸となって前進。1935年に再び成長を始めるまでに至ったのだ。

そして今までストライキは一度も発生していない。

エルメスの製品は耐久性が非常に高いことで知られるが、これは創業者ティエリの真面目で丁寧な手仕事と、故障が生命の危機に直結する馬具の職人という仕事が組み合わさった結果であり、まさに手仕事と耐久性はエルメスを象徴している特徴なのだろう。

もしあなたがエルメスの製品を手にしたならば、伝統的な製法と職人の信念によって生み出される丈夫な製品から、その努力や手間を慈しむように愛用するのがよいだろう。


ブレゲ(ウォッチメーカー)

1743年のスイス西部ヌーシャテルの名家の子としてある人物が生まれた。アブラアン-ルイ・ブレゲと名付けられたその男の子が11歳の頃に父が他界。数年後、母と再婚した人物が時計師だったことで時計の世界に興味を持った少年は、より高度な技術を身につけようと決意した。15歳の時、当時時計製作の中心地であったフランスへ、少なくとも400kmを超える距離をひとり、その旅路を歩き出したのだ。

パリやヴェルサイユで経験を積んだのち、1775年、パリに念願の工房を構える。時計作りはもちろん物理学や天文学、機械工学にも没頭し、比類なき偉大な発明がいくつも誕生する。機械式時計の機構の70%以上はブレゲが発明または改良したという逸話があるとおり、現代の時計にも多種多様な構成部品の固有名詞としてブレゲの名が刻まれているほどの成功を収めたが、もちろん発明家としての側面だけではない。当時GPSの役割を持っていたマリンクロノメーターをブレゲは制作していたが、ナポレオンがエジプト遠征の際に3つ持参したことなどでも知られている。ほかにもヴィクトリア女王やナポリ王妃、マリーアントワネット、チャーチルなどといった偉人も愛用していた記録が残る。

ブレゲの息子たちもやはり非凡な能力を持ち合わせていた。彼らは時計業界の枠を越え多様な才能を開花させている。たとえば20世紀初頭には電気自動車を完成させ、1907年には世界初のヘリコプターを開発。1924年にパリ~東京間、1927年にはセネガル〜ブラジルの南大西洋間の、そして1930年にはパリ〜ニューヨーク間の無着陸飛行に世界ではじめて成功するなど、航空史に金字塔を打ち立てている。

世界初のパリ~ニューヨーク間無着陸飛行に成功した「ブレゲXIX」
ル・ブルジェ航空宇宙博物館に展示されている。

1912年には初の水用機を、1915年に初の爆撃機を開発した技術力は、高い評価を得るようになるが、それら数多くの航空機のコクピットにはもちろんブレゲ製の航空計器が使われている。時計メーカー、ブレゲは初代ブレゲのマリンクロノメーターと同様に、旅の安全を保証するための仕事をしたのだ。

こうした計器の経験の積み重ねによりフランス海軍の目に留まり、1950年代に現代も発売が続けられるパイロットクロノグラフ タイプXX(20)として結実したのだった。一方、航空業界でも高性能を誇る「ブレゲXIV」が1917年に完成。第一次世界大戦を軽爆撃機に改修され、世界を飛び回った。なお本機は金属を多用した大量生産可能な最初の航空機ともなった。

ル・ブルジェ航空博物館で展示されるフランス空軍のブレゲー 14

1815年に初代ブレゲがフランス海軍省御用達の時計師として任命され、通算22個のマリンクロノメーターを作ったように、その子孫たちのタイプXXという時計が、複数の航空機がフランス軍から認められたのである。

1870年には時計業界以外にフォーカスするため、ブレゲ3代目のレイ-クレマンから当時の工房長エドワード・ブラウンへ経営権が引き継がれたが、ブレゲの功績と遺産の歴史における重要さを理解していたブラウン家が3代、約100年間に渡り、そののれんを守り続けたことで今日のブレゲがあり、ショーメなどを経て現在はオメガなどで有名なスウォッチグループの最上位メーカーとして時計製作を続けている。一般にブレゲは休眠していたブランドを再興させたと理解されているが、前述のとおり時計制作への比重が変化してからもタイプXXをはじめとした名作が生まれていた事実は強調したい。

もう一つ、時計制作で外せないメーカーとしてパテックフィリップがある。創業者の一人であるアントワーヌ・パテックもまた、ポーランドからフランスを経てスイスへの旅の中で時計ビジネスに出会い、スイスで事業を立ち上げた人物だ。しかしビジネスパートナーであり時計職人であったアドリアン・フィリップや従業員に対しては前述のシャネルと同様、冷遇し見下していたことは一般にはあまり知られていない(が、公式書籍であるパテックフィリップ正史にはこれらのエピソードが残っている。)

たとえば軍人であり商売人としてセールスを担当したパテックは、職人気質だったフィリップに対して、自身の作成した時計にフィリップの名前を(たとえ連名であったとしても)刻むことを拒み、パテック社製とするよう強要し続けた。後年もパテック,フィリップとコンマを打たせたり、フィリップの名前を下段にずらしたりするなど現代では嫌がらせとしか考えられないようなことまでしている。この我田引水な性格も幸いし一般には金銭トラブルとされるが創業当時のもう一名のビジネスパートナーであったフランソワ・チャペックともパートナー関係を解消している。

後の時代、経営権がスターン一族に移った後も職人的な作業へのリスペクトという文化そのものは継承し時計には両名の名が無事に刻まれるようになったが、作品に対する扱いという点では変わらず、工房のどこかに紛れ込んだ時計の話や、タンスの引き出し裏から発見された時計といった話が複数残っていたり、当時コーヒー産業が発展しつつあった新興国ブラジルでの1872年からの事業展開(1927年に撤退)においては、今でいうローン制度を活用し、金銭と回収した時計の二つの利益を回収するといった蜜月の関係を代理店ゴンドーロ社と築くなどしており、創業時代から時計製品に対する”思い入れ”がこのメーカーからは感じにくい。パテックフィリップ自身がブレゲを越えられない壁と位置付けるのも、こういった歴史が関係しているのかもしれない。

創業者の物語や歴史に共感できるか。自分の金銭・資産と交換するに値する作り手なのか。

3人が生きた当時、旅は楽しむべきレジャーやアドベンチャーではなく試練だった。この旅の苦行という奇妙な共通点を乗り越えて誕生したメゾンはいま、それぞれの分野で最高峰と名高い別格の存在として威光を放っている。

旅は人を育てる。創業以来100年超にわたり世界の頂点として君臨し続ける3つの会社を見た時、それがわかるかもしれない。

Trip.com (トリップドットコム)

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