パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業者として知られる昭和の偉大な経営者が、若者に宛てて記した本書。著者自身の人生で得た学びを凝縮した一冊だ。
今の価値観で理解しようとすると、古臭いであったり、時代錯誤と感じる人もいるかもしれない。しかし一時代を築き上げた人物の言葉だけあり、迫真さや言葉の重さに圧倒される。
人の悩みごとは、今と昔でそれほど変わっていないのかもしれない。名作として語り継がれている理由に気がつくだろう。
わたしのこれまでの体験といいましてもごくかぎられたものです。けれども、わたしが日本人のひとりとして自分なりに生きてきた人生の体験が、今後の新しい日本の繁栄を背負って立つ若いみなさんに、いささかなりともお役に立つならば、まことにしあわせだと思います。
老年には老年の喜びがあり、生き方があると、むかしの賢者はいっています。けれどもわたしは、いつまでも若くありたい。青年期のごとくありたい。そして、そうできるはずだと信じているのです。肉体が年々歳をとっていくのは、避けることはできない。しかし精神は、いくら歳を重ねようとも、青年のときと同じように、日々新しい希望にみち、若々しい勇気を失うことなく、自分に与えられた使命の達成に 邁進 しつづけることができるはずだ、と。 そうした精神の若さを、どこまでも失いたくないというのが、かねてからの、わたしの強い願いでした。
困窮のなかで育ったわたしには、そうしたふき掃除などはたいしてつらいことではありませんでした。そして、子どもなりに一生懸命努力しました。そういう境遇に生きなければならない運命に、素直に従ったというわけです。
砂糖は甘く、塩は辛い。それはだれでも知っています。しかし、それは議論したり、考えたりしてわかるのではない。その甘さ、その辛さを知るには、まずひとくちなめてみることです。体験の尊さはここにあります。もっとも、体験といっても、しょせんはそれぞれ個人的なものであって、その体験が、いつでも、どこででも、だれにでも通用するものとはかぎりません。しかし今日、体験を抜きにした、空疎な議論がなんと多いことか。
大阪の船場のひとびとは、商売の道ではあるけれども、これに類した修業をした。たとえ不景気がきても、この不況こそ、少年時代からたたきこまれた修業を生かす好機だと、しっかりと背骨をのばすのです。悲観して、ノイローゼになり、ぺしゃんと倒れる者とは、土性っ骨がちがっています。
大阪の船場のひとびとは、商売の道ではあるけれども、これに類した修業をした。たとえ不景気がきても、この不況こそ、少年時代からたたきこまれた修業を生かす好機だと、しっかりと背骨をのばすのです。悲観して、ノイローゼになり、ぺしゃんと倒れる者とは、土性っ骨がちがっています。
たとえ三センチ先がわからなくても、わたしたちはわたしたちなりの努力をしなければならない。人事をつくして天命を待つといいます。なににつけても、みずからの最善をつくして生きていくことが、人間としての尊い姿だと思います。そうすることが、悔いのない人生というものでしょう。
ただ漫然と待つというのではいけない。いわゆる“〝 たなぼた”〟 式に運がひらけるなどと思ってはいけないのです。一瞬できまる勝負のために、連日激しいけいこに励んでいる力士のひとたちのことを思うとき、わたしたちは、自分の人生に対して、毎日、それこそ真剣に取り組まなくてはならないと思います。
たとえ三日だけの手伝い仕事であっても、その仕事に当たっては、一生の仕事に対するような心根で立ち向かう。そうするならば、そこからは、必ずなにか大きなものをえることができる。
わたしたちの人生には、わからないことが多い。また、新しいものごとを発見していくことも、ひじょうにむずかしい。さいわいにして、そばによい助言者や指導者がいれば、あるいは適切な導きを与えてくれるかもしれません。しかし、そういうひとがだれにもいるとはかぎらないでしょう。しかし、もしいないとしても、けっして悲観してはならないと思います。そのことは、エジソンがはっきり示してくれています。師に恵まれず、指導者がなくても、すべての事物をことごとく師として学び、あのような偉大な業績を残しえているのです。
わたしたちの日常生活にはいろいろなことがあり、めまぐるしく過ぎていきます。しかし、ひとのことば、自然の事物のなかには、大きな真理がひそんでいるのです。また、ものを生み出すヒントも含まれているにちがいありません。多くのばあい、わたしたちは、そうした師とすべき事がらを見のがしがちなのです。まことにもったいないことと思います。 そうした真理をつかみ、また、なにごとかへのヒントをえるには、まず、目にふれるすべてのことを素直に受けとめる心が必要です。素直に受け取り、熱心にそれを生かそうと心がける――そのことによって、自分自身の、人間としての成長もはかれるのではないでしょうか。
苦労して積み上げていくのが、結局は、ものごとを早く確実に成就する道であるという道理は、あらゆることにあてはまる――このことをしっかり腹におさめるべきだと思います。
「商売というものは、ひじょうにむずかしいものだ。きびしいものだ。いわば真剣勝負と同じだ。だから、大きな心配事にぶつかると、どうしたらこの困難を克服できるかと、あれこれ思いめぐらして、眠れない夜を幾晩も明かす。それほど心労を重ねなければならない。心配し抜き、考えに考え抜く。心労のあまり、とうとう小便に血が混じって赤くなる。そこまで苦しんで、はじめて、どうしたらよいかわかり、心が安定し、そして新しい光が見えてくる。道がひらけるのだ。いいかえれば、すこしオーバーないい方かもしれないが、一人前の商人になるまでには、二度や三度は小便が赤くなる経験がいるのだ」
一般に、利益の上がらない、不況の現実において、なお発展をつづけているお店がある。それは必ず、店主も店員も、それだけの働きをしているからです。一生懸命やるというだけでは足りない。どうしても、つねに新しいくふう、新しい道を求めてやっていかなければならない。そうしてこそはじめて、お互いがともに繁栄してゆけるのだ。苦しいけれどもそれをお互いにやり抜かなければならない。
大将、つまり、リーダーとなるものは、このことを知らねばならないと思います。家老の意見に耳を傾けることはだいじです。しかし、家の子郎党、つまりその家族を含めた部下全員のいのちをあずかっているのならば、自分はあまりその気はなかったのだけれども、家老がそういうので、というような、あいまいなことで命令は下せないものです。命令の全責任は大将ひとりにあるのですから。
ものまねするのでなく、自分というものをぴしっともったうえで、参考として読むのでなければいけない。
自己認識というものがしっかりできていれば、世間にいくらもある、その種の失敗は起こらないのです。どのようにうまい話がきても、自分に不適性なことには心を動かさない。自分が是とし、自分にぴったりした仕事であるならば、地位が低かろうと、世間からちやほやされるようなことでなかろうと、それは、じゅうぶんな喜びと慰めと誇りを与えてくれるのです。その仕事に生きがいを感じることができる。生きがいを感じて打ちこむ仕事からは、必ずりっぱなもの、りっぱな業績が生じるはずです。 後世に名刀とともにその名を残した刀工は、刀工という仕事がぴしっとその適性に合っていたのです。
同じ職場に対しても、はじめから、いかんときめてかかるか、いいところだとまず宣言し、まずい点は、これからの努力で改善できるという気持ちをいだいて臨むか、その二つによって、仕事に対する姿勢に天地のちがいが生じてくると思います。いうまでもなく、あなたは後者を選ばねばいけない。
もしも、なにか策略的な魂胆から発してものをいうとか、自分の立身出世に役立てようとしてすることでしたら、そういうことは、すべてすぐ相手に伝わって逆効果になる。それほど社会は甘いものではない、とわたしは思います。そうではなくて、あなたの真心とか誠意から出たことばや行為であるならば、それは尊く、そして力があるものだということができます。
人生について、ひとはそれぞれに、いろいろな考え方があるけれども、最近わたしは、このように、その日その日を精いっぱいに働き、その充実感を味わえるように生きていくことが、なによりしあわせであり、喜びであると考えることが、きわめてだいじだと思うようになりました。
こうしなければどうなるとか、そうしなければどうだとか、わたしたちは、とかく目先のことにとらわれがちです。しかしそういうふうにして考え悩むよりも、くり返すようですが、その日その日を充実させていく、仕事に徹し、努力を積みかさねていくことを、わたしはあなたにすすめます。 あとは大船に乗った気でいる。つまり、そういうふうな度胸をもつ、そうしたならばきっと道はひらける、と信じていいと思うのです。やるだけのことを誠心誠意をこめてやる。そうすれば、どんなばあいにも、あわてる必要もなければ、悲観したり、苦しんだり、不平をいったり、憤慨したりする必要もないと思うのです。
怠け心が起こるのがこわい、 傲慢 になりがちなのがこわい。ひとはとがめなくても、こういうことをすれば、自分自身として恥ずかしいと感じるこわさがある。これらは、くらやみがこわいとか、犬がこわいとかいうこわさとは次元がちがうこわさです。そして、そういうこわさを、みずから求めてでも、つねにもつことが、感謝の心と並んで重要だと思います。
すべてに感謝しながら、こわさを知る謙虚さを持し、そうして着実に前進への努力をつづける――あなたの真の力はそうしてこそ養われていくといえましょう。
安泰なとき、平たんな道がつづくとき、ひとは安易な生き方・考え方に堕しやすい。それではもてる力をじゅうぶん成長させることができないし、大きな成功も望めません。いまわたしたちのぶつかっている諸困難は、乗りきるに苦しいけれども、お互いが力を高め、全体として成長するひじょうな好機なのです。
金も物も自分のものと思うから奇妙な欲が出る。責任ある預かりものだ。むだに使ってはならない。それを有効に使い、社会にそれを返すことによって責任は軽くなり、われわれの住む社会が成り立っていくのだ――。
責任を背負い、そのことに生きがいを覚えないとしたら、年齢は二十歳をどれだけ過ぎようと、一人前のひとではありません。そういう無責任なひとたちがはびこっている社会は、健全であるとはいえません。いまの日本を民主主義の世の中といいますが、もしそうした無責任なひとを、無責任な状態のまま生かしておく社会であったら、民主主義は名だけのものにすぎないことになります。
交通事故という問題があります。ここ数年、一年間の死者の数だけでも一万人を越えています。それはわたしの生まれたときの、あの日清戦争の死者よりも多いのです。
根本はあなた自身の生き方の問題なのです。
個人の意見を無にした団体とか一体感など、道徳教育が戦争に結びつくと考えたりするのと同じように、次元のきわめて低いものだと思うのです。

