新しい友人ができても、全ての時間を彼らと過ごす必要はない。同じ友人といつも一緒にいると、友人が自分の人生の一部となってしまう。すると友人は彼を変えたいと思い始める。そして、彼が自分たちの望み通りの人間にならないと、怒り出すのだ。
誰もみな、他人がどのような人生を送るべきか、明確な考えを持っているのに、自分の人生については、何も考えを持っていないようだった。
人間は、「自分の都合」を第一にして生きています。それはそれで仕方のないことですが、「自分の都合を第一にして生きる」とは、自分の責任で自分の人生を作り上げることであり、「自分という存在」を自分で作り上げることです。「自分の都合」とは、脳が勝手に決めた観念的なものですから、「自分の現実」とはずれていることがいくらでもあります。「ずれてはいない。これが自分の現実だ」と言ったとしても、そう言うこと自体が「自分の都合」かもしれません。「自分の都合」に従えば、「自分の現実」は、自分に相応の「あるがまま」かもしれませんが、でもそれは、他人の目からはまた違ったものになっているのかもしれません。「セルフイメージ」といちのが、他人の見た目とは違う自分独特のものになっているのは、人が「自分の都合」を第一にして生きているからです。
どんな人も富士山が見えた時、「あ!富士山だ」と叫ぶ。
叫ばなくても、心でそう声に出している。電車からでも飛行機からでも車でも、現れた富士山の姿に確実に何かを感じる。たとえ東京から頭がほんの少しだけ見えてもだ。それが富士山という存在だ。それほど富士山は日本人にとって象徴的な山である。
誰かを崇拝してしまったら、もう私は永遠に、その人に負け続けてしまうのだろう。
どれほど好きなものを見つけても結局それは他者であり、自分の外側にあるものごとであり、自分自身の内容物には決してならない。「好きなもの」を並べても本当はプロフィールとして成立しないはずなのだ、たったひとつ手にしているのは猛烈に好きだというその感情であり、それだけは自分そのものだと言えるかもしれない。けれど、本当はそれだって、その感情自体ではなく、感情を吐き出した「何か」こそが自分なのだと思います。弦をはじけば音が鳴るけど、その音ではなく、弦が「私」なのだろうなあ。
どんなに作り手が全てを懸けて作った作品も、誰かにある一日の、とても気軽に設けられた暇潰しの場を彩るひとつでしかないことがあり、それはむしろ作品にとって誇らしいことなのだ。誰かの人生の断片に、他者が作ったものが入り込んでいくこと。軽い気持ちで、少しだけ期待され、手を伸ばしてもらえること。それはもちろん、強烈にその作品が好きな人からすれば「もっと真剣に見てくれよ」と叫びたくもなることなんだろう。その気持ちはわかる。私もものすごく好きな作品や人はいて、そういうのはみんなに同じくらい真剣に見てほしいって願ってしまう。でも、それが全てではなく、全てではないからこそ、人の作り出す摂楽や芸術は人生の細かなところにも、ほんの一瞬にも、大地に染みる水のように広がって、行き渡っていくんだろうと思う。
飛び出し過ぎず、引っ込み過ぎず。願い過ぎず、無頓着でもない。生きていく中での揺れの真ん中にいるのが「ふつう」ってものなのかな。ちょっとつまらないような気もするが安心でもある。心のよりどころが「ふつう」ではないかと思う。人は常に揺れている。欲望や願望に振り回される。ふつうにとどまって動かないということは難しい。
淡々ととか、気負いなく、とか言う言葉の向こうに目指しているふつうが見える。
「自分の人生に失敗した」と言う人がいます。「失敗した」と言って自殺をしてしまう人もいます。しない人もいます。その人達が、本当に「自分の人生に失敗した」であるかどうかは分かりませんが、そういう判断が生まれるということは、「自分の失敗しない人生」がどのようなものであるかを想定している、ということです。つまり、人間は自分の人生のあり方を、自分で判断するのです。「かくもあらん、かくもあってしかるべき」と、自分の人生を作ろうとします。「存在」は、人生の一点です。人間は、自分の「存在」を作り、人生を作るのです。更にはその上で、批評さえも求めます。つまり、「他人の判断を仰ぐ」です。
「ムカつく」と言いながら、人はぜったい微笑めない。「うれしい」「楽しい」と言いながら、人はぜったい顔を歪ませられない。言葉が表情までをも支配することに、一日も早く気づかないといけないのだ。
もし、立派で強大な幸せが手に入ったとしても、もっと上もっと上と、際限なく上の幸せを望んでしまうことが、逆に新たな不安をどんどん呼びこんでくるから、それを幸せとは呼びにくい。むしろ、日々ひとつずつでも”気持ちのいいこと”が続いたほうが、結果としてよほど大きな幸せを感じられるはずなのだ。
テレビをつければ才能や天才という言葉が氾濫している。最年少受賞だの初出場で優勝だの。私の瞳には、世界は「認められた人」だけで構成されているように映っていた。私なんていなくても大丈夫な世界。そんなの、最初からわかっているのに、才能とか天オとか、最年少とか、そういう言葉まで使って、世界は傲慢なぐらい、私のことを一粒残らず消し飛ばそうとしていた。
20歳、という年齢が節目のように語られるのは、法律で「成人」と定められているから、それだけだろうと私は思う。社会における「責任」はやってくるだろう。けれど、あなたの20歳と、誰かの20歳が比較される必要はなく、あなたには、あなたの19歳、20歳、21歳があるだけだと私は思う。
当たり前のように語られる「20歳なのに」という言葉や、「20歳ならこれぐらいするべき」みたいな考え方は、私にはよくわかりません。同じ20歳などどこにもなく、あなたの人生のためにしか、あなたの年齢はないし、私の人生のためにしか、私の年齢はないのだと、私はずっと思っていたい
娯楽や芸術は、本当の意味で、人生を豊かにすることができる。人生を変える大きな出会いだけでなく、そうやって細かなところまでずっと何かがそばにあるということこそが「豊かさ」だと私は思うし、その豊かさがあるから、たまに人は一つの作品に深く深く潜っていける。人生の大イベントになる前にずっと近しいところで「生活」としてあった作品に触れてきたから、必要な時に飛び込めるのだ。
賢さそのものが魅力として映るとき、その人はその人のためにしかそこにいない気がする。結果としてたとえ世界を大きく変えることになったとしても、その人の閃きを最前線で感じ取って、その鮮やかさに心底連れているのはその人自身であるはずだ。
気持ちは、物事に対するリアクションとして発生するから、物事がどうしても主だと思う。気持ちは従。だから悲しくていたたまれない、より、こんな悲しくなる出来事がどうして起こるのだろう、と調べたり考えたりしたいと思う。気持ちをぶつける、というよりは、「どうしてそんなことをするのですか?」と質問をしたいし、相手の気持ちではなく理由を知るのが大切と思ってしまう。相手がどのような欲求をもって、こちらに優しくしたり冷たくしたりするのかを、知りたい。
誰でも若い時は自分の運命を知っているものなのだ。
まだ若い頃は、全てがはっきりしていて、全てが可能だ。夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことに憧れることも恐れない。ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ。
「影響を受ける」というのは、「落とし穴に落ちる」と同じです。落とし穴に落ちるのは簡単です。うっかりしていれば、すぐに落ちます。落ちたら、落とし穴から出なければなりません。出るのには「努力」がいります。「自分の存在を作る」とは、いつの間にか落ちていた落とし穴から出るということで、努力がいります。影響を受けたら、その影響を払拭する努力をしなければなりません。それをしないのは、「カッコいいと思った人間の真似をして、自分もカッコよくなったと思う」と同じです。これをもっと酷い言葉で言えば、「自分の存在が醜くなっているのに気づかない」です。「自分」という存在は自分で作るもので、他人の影響力に従属するのは、信仰の世界です。
水面に落ちる水滴は、全体に波紋を起こす。たとえ一滴であってもそれは大きな影響力を持っている。
人間というのは、根本的に可能性の溢れを生きている動物であって、その溢れには、何らかの規範から外れること、端的に言って悪も当然含まれます。それゆえに、現実の社会運営では、人が共に生きていくために必要な制限や禁止が設定されている。ですが、そもそも人間が、悪まで含めて途方もない可能性の溢れを生きているということを表現において認めるのが芸術の力であり、それは、人間が人間たる条件を認めていることにほかならないのです。
自分の感情、自分の信念、自分の習慣のようなものに囚われないことが大切だ、と僕は感じている。いつも、「どうして自分はこう感じるのか?」という疑問を持つこと。自分の判断を疑う目を持つことにしている。
今の時代、絶対なんていう人生はない。
いつからでも、どこからでも始められるように備えておくことが誰にも必要なのではないだろうか。
親にとって子供は常に”特別な人”である。
精神的離乳を遂げていない者は、自分は一般の人にとっても”特別な人”であると感じる。
小学校以来、ただひとつの価値観を教え込まれてきた自分。塾に通い、少しでもいい高校へ、そして少しでもいい大学から、少しでもいい企業へと、追い立てられてきた自分。
一切の競争を否定し、そんな世で出世するのはくだらないのだ、馬鹿なのだ、卑しい人間なのだと徹底的に教育されて育った子供もまた、いつの日か親を恨むに違いない。
今までの自分の人生の貧しさに驚くに違いない。
人生には二つの危機がある。
ひとつは自分が親から精神的に離乳していく時。
もうひとつは自分の子が自分から離れていくときである。
そして第一の危機をきちんと乗り切っていない人は、第二の危機に耐えられない。
われわれは、自分が親からキチンと精神的離乳をとげているか、自分に問うてみること、そして自分の親は、自分が離れていくことをどう見ているか観察することである。
本なんて、一冊読んで一行でも気になるフレーズに出会えたら、それで充分元が取れるようなものだ。
ずっと読まずに本棚に置いておいて、読んでしまった気分になるというのもいい。
本に限らず何でも、作者が決めた使い方を律儀に守る必要はないし、自分が取っつきやすいやり方で自由に利用しよう。
