労働の中にはその対象に価値を付加するものもあれば、そのような効果を持たないものもある。
アダム・スミス《国富論》
資本主義社会における報酬とは何を表すのか。たとえば社会に還元している価値と影響力が大きい人を(いわゆる)成功者と考える人は多いだろう。それはほとんどの場合正しい。それではエッセンシャルワーカーやアドミ業務といった職種に従事する人たちが生み出す価値が世間から過小評価されがちなのはなぜだろうか。
それは「常に100%稼働していることが前提」とした社会設計がされているからだ。それでは評価されても十分な報酬には結びつかない。
さらにサービスを受ける側の人たちが、お金を生み出す立場でないことが多いということも問題だ。分かりやすいところで言えば保育園や高齢者サービスといったものは、サービスの提供を受けた側、例えば高齢者がそのサービスを受けたことで社会に新たな付加価値を生み出す、あるいは還元するといったような仕組みになっていない。つまりどれほど社会的意義があろうとも、どれだけ社会に貢献していようとも、顧客側がお金を生み出さないのだから、その単価が押し下がる方向に圧力が強まるのは明らかだ。
言い換えればその役割がどれほど重要であっても、新たな価値を生み出す構造には組み込まれにくいというジレンマに縛られているのだ。
それは単純に「働いた時間や量」あるいは「仕事への誠実さ」で決まるわけではない。業務の難易度と、そこから生み出される付加価値によって報酬の高低は決定されるのが、資本主義社会での市場原理なのだ。
一方で、いわゆるホワイトカラーやマネージャーなど意思決定層の業務は、同じ時間であっても大きな成果や影響を及ぼす可能性があり、結果的に報酬も高くなる傾向にあると見なされることが多い。マネジメントや戦略策定などの仕事が高く評価されるのは、その背後にあるレバレッジの効いた価値創造があるからだと言える。
スタートアップの起業家が短期間で大きな富を手にするのも、彼らがダイレクトに市場へ新たな付加価値を届けているからに他ならない。企業の大きさではなく、市場に対してどれだけユニークで価値ある貢献ができているかという点だけで計られる。
「自分はもっと評価されるべきだ」と感じている人は、一度立ち止まり、資本主義の原則に立ち返って、自分の提供価値と戦略を見直す必要があるかもしれない。
言うまでもないが、人間一人ひとりはユニークで尊重されるべき存在だ。しかし、その個々人のユニークさに対して経済的な価値が生まれるかどうかは全く別の問題である。個性や違いが“区別”され、市場での価値として認識されたときにはじめて、それは報酬として反映されことは忘れてはならない。
