努力の言葉

鐘は鳴ってこそ鐘である。鳴らなければ、鐘の実力は分からない。発揮できてこそ実力なのである。

オリンピックのレースに出て負けた選手が、「日頃はもっといいタイムで走っています」などと言っても通用しないのである。

その人のその時のタイムが、その人の実力なのである。

スランプも実力のうちなのである。 

休養も練習のうちであることを忘れてはならない。

スランプの自分は何か本当の自分でないように感じている人がいるようである。決してそうではない。

あるがままの自分を受け入れることのできる人ほど、やがて大きな仕事をする人である。

うろたえたり、あがったり、あせったりするのは、「本当の自分はこんなではない」という気持ちがあるからである。実力が自分の思うように発揮できない時、あがるのである。

昔から量を積み重ねている人に対して、途中から作戦で勝とうとしても無理です。ですが、量を積み重ねるなかで得られる判断力のポイントを学び、そこから再出発して、量を積み重ねていくことはできる。民主的な教育というのはそういうことではないでしょうか。

自分にできる範囲でのオリジナリティをまったく別のスタート地点から始めることで、同じ基準で競争している人たちの競争に混じらずに、何らかの別経路でデビューすることがおそらく可能なんです。

多くの人はやはりそれでも、メジャーな音楽をやってメジャーデビューしたいと切実に思うんですよね。ただ、僕の考えでは、そういう方向で作品を作ることも、いったんそれをやめることで初めて可能になるんだと思います。つまり、いったん「ヘタウマ」に向かうことで、むしろ写実に向かうこともできるだろうということです。

よく「成長」という言葉で語られる、個人の能力の向上であるが、このことを「知識」だと理解している人が多く、「早く仕事を覚えたい」という声をしばしば聞く。だが、そうではなく、「成長」とは、どう考えれば良いのか、という思考力によって成されるものである。

覚えるものではなく、編み出すものだということ。頭を使うほど、頭が成長する。これは、その運動をするほど、鉢がそれに慣れ、そのスポーツが上手になるのと同じである。

給料制の会社員というのは、必ずしも仕事量と賃金が比例していない。働いた量や質に対して正当な賃金が支払われることは、まずないと考えて良いだろう。なにしろ、既婚であるとか、子供があるということに手当がつく。そういった手当がつくこと自体が、仕事以外のものを評価している証拠である。このあたりは、資本主義ではあるけれど社会主義的なシステムが取り入れられている理屈になる。

自分の人生が、どうしたらいいのか行き先がわからなくなる。日常生活をすごしていても、なんとなく行き場がない、何をしたらいいのかわからないというのは、人間の本質である「可能性の過剰」に溺れてしまっているのではないでしょうか。目的が限定されないと何をしたらいいかわからなくなり、体が固まって、抑うつ的な状態になることもある。

そのようなネガティブな状態を人は避けたいわけですが、脱目的化した不安な状態こそが、深いところで芸術とつながっているのです。

人は無意識のうちに、いろんな側面で「こうであるべきだ」にとらわれているからです。しかしまた、個人とは、何らかのとらわれによって特徴づけられるものでもある。

優れたピアニストというのは、正確に楽譜通りに弾くことができるわけですが、ただ機械みたいに再現しているのではない。鍵盤の上で指をめちゃくちゃに走り回らせることのできる凶暴なエネルギーを持っていて、その有限化として、あるひとつの曲を弾いているということだと思うんですね。だから、優れたピアニストの演奏というのは、確かに楽譜通りでありながらも、楽譜通りにきちんと弾くということを超えるようなスケール感や追力を持っている。

このことは部屋のインテリアなど、日常的なものの並べ方にしても言えることです。

失敗は最高のレッスン

失敗は敗北を決定づけるものでも、不幸を意味するものでもない。 

確かに失敗が重なれば、落胆は大きい。

大切なことは、挑戦の火を自身の胸中から決して絶やさないこと。

前に進む限り、失敗は自己を飛躍させる糧になる。

自身の理想や目標へ、どれほど魂を燃焼させることができたか。

そこに真の人生の充実がある。

人生を旅に例えるなら、夢は一つの道標に違いない。 

目標があるから、努力の道を歩み続けることもできる。

夢を叶えること以上に、夢を持つことに意味がある。

今日も、そして明日も、我々が困難に直面するとしても、私にはなお夢がある。

青年は夢が大きすぎるくらいでいい。

人間は自分の夢以上にはなれない。

夢に生き続ける人こそ、永遠の青年だろう。

思ったとおりにはならないが、やった通りにはなる。

どうせやるなら面白く、悔いなく、妥協なし。

君よ、君でなければ創ることのできぬ、偉大な使命の物語を創れ!

「思い通りにならない」という状態こそが、この物質世界が持つ最高の価値であるということ。 

その「思い通りにならない」という「価値ある現実」から出発して、「思い通りにならない人生」をいかに正しく苦悩しながら生き、ふだんは思い通りにならないからこそ時おり出会うことができる「願いがかなうという喜び」を、いかに正しく味わって感謝するかということ。 

それらを、日々の人間生活の中で学んでいるのが、現在の私たちの姿なのではないでしょうか。

試練という言葉は、「困難だとわかっているからこそ挑戦する価値があり、それを通じて大きな学びを得ることができるような課題」を意味します。だからこそ、私たちは、わざわざ困難な試練を自分に与えて、人生という問題集を解くために生まれてきているのです。

人は、楽しいことを共有した相手よりも、苦しいこと、悲しいことを共有した相手との方が、より深く理解し合えるものです。

夫婦は、何度もの「思い通りにならない人生」をともに悩み、助け合って乗り越えてきた相手ですから、他の存在とは比較にならないほど、強く深い結びつきでつながれている「一心同体」であると言えるでしょう。

誰のせいにもできないという状態は、一見するとつらいことのように思えますが、実は、これほど精神的に楽なことはありません。 

その理由は、「これで、誰も恨まなくてもすむ」という、これ以上ない安心感に支えられるためであり、少なくとも「誰かを恨む」という最悪の状況は回避できるからです。 

人間にとって、本当は、「人を恨むこと」ほど、自分がつらいことはないのです。

人生のボスキャラ(大きな試練・重要な試験)をやっつけて、物語を先に進めるためには、まず、日々目の前に現れてくるザコキャラ(小さな試練・小テスト)を、きちんと退治しながら成長しておく必要があるというわけです。

いくら、人生が「敗者復活制」を採用しているとは言っても、時間を過去に戻してリセット(やり直し)するボタンは付いていないのです。

「運命」は一本道ではなく、自分の意志と努力で選び取ることのできる道を、いくつも用意してくれているのです。  

その際に、結局のところどの道を選んだとしても、それぞれ異なる方法で、予定通りの学びを経験することができます。

その意味では、人生の選択肢は、どの道を選んだとしても、「はずれ」(無駄な道)はありません。

「なぜ、そうするのか?」「その意味は?」常に内観し続け、問い続けることで、感性力のみならず、直観力、洞察力、共感力も磨かれていきます。

同時に、その意味、背景、仕組みがつかめるようになるのです。感性力は、「問い続ける」ことで磨かれ高まるのです。

「なぜ」と常に疑問を投げかけていると、その人の感性も高まる。 

常識を常識と考えていれば感性は高まらない。

感性が高ければ精度の高い仮説を構築することができるのです。

「仕事ができる」といわれる人ほど仮説と検証をビジネスに応用しています。

仮説は「自ら考え続ける」ことで構築できるのです。

けして、「与えられる」ものではない。

自分の言葉で考えたものでないと仮説を立てる意味はない。

あなたの仕事は、先輩を真似し、ビジネス本からヒントをもらい、積み上げたはずです。 

要するに私たちの仕事はモノマネなのです。誰かのコピーなのです。

その大元になるオリジナルがあるわけです。そのオリジナルを開発した人は苦労して普遍的なノウハウを構築したのです。

先人たちのノウハウを我々はコピーしてアレンジしているにすぎません。

少しづつでも続ければ進歩に。

人生は一度っきりだから、生まれかわるなら生きてるうちに。

常に最善を尽くすこと、それは常に可能である。

あなたにとっては簡単にできることでも、他人にとっては苦労することかもしれないのです。 

自分では「それほど得意でもない」と思っていても、人から見たら「すごく上手」だったりすることもあるのです。

あなたがよく人から頼まれることは何?  どんな点をよく褒められる?  それを考えながらリストアップしていくと、自分の強みが浮かび上がってくるはずです。

あなたが今まで苦労してきたこと、悩んできたこと。これもまた実はビジネスの糧になるものです。なぜなら、苦労している人や悩んでいる人の気持ちが分かるから。

苦しい時にいろんな方からアドバイスをいただき、自分らしい人生を歩めるようになった。そうした経験から、ちょっとした一言が人生を好転させるキッカケになるということを知っています。ですから私は、困っている人がいたら積極的に手を差し伸べるということを続けています。

指導する側がアドバイスするときに失敗するのは、いろいろ言いすぎることです。アドバイスが多いのは、指導する人の心理状態を理解しないからです。 

逆に、指導する人の心理状態を見抜き、ポイントを絞り込み、その人が能力を発揮するようなアドバイスすることで、確実にスキルや人間力が伸びてきます。

仲間たちが走り続けてくれていれば、そこには大きな道ができる。 

そして彼らは必ず疲れてくる。

みんなが疲れてバテている時に、自分が颯爽と登場すればいい。

どこに店を出すのか、誰と仕事をするか、いくらの値段をつけるか、どんな販促を打つか、営業時間、定休日、どれも経営者の自由です。 

経営とはアンコントロールなことを、「コントロールできること」でコントロールすること です。また、 経営力とは環境適応力 だと言ってもいいのではないかと僕は思います。

失敗しない人が成功すると思っています。違います。みんな失敗します。 失敗から学ぶ人が成功する のです。 イチローも 10 回バッターボックスに立てば7回空振りします。

他人の失敗からは学べないというのが僕の自論 です。自分の失敗からしか学べないのです。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、それで直るなら世界から失敗はなくなります。成功は「失敗が法則」ですから「失敗しない」なんてことは無理です。幻想です。 失敗を前提として、そこからいかに学ぶかが成功の近道 なのです。

失敗に時間をかけてはいけません。がんばりは必要ですが、がんばり過ぎてもあきません。がんばると成果が出ますが、がんばりで現実が歪んでしまいます。 

「え、結果が出るならいいんじゃないですか?」ってあなたは思ってるでしょ。

それが間違いなんです。 がんばりは続きません。 長続きしません。

アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンで文字を書くことができないのを発見した。これではボールペンを持って行っても役に立たない。 

NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。

その結果、ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発したのだ!

一方、ソ連は鉛筆を使った。

初めの一歩を踏み出します。次の一歩も。

決してあまり先を見たり、あるいはずっと後ろまで振り返って見てもいけません。

なぜしないといけないかが、自分でよくわからないことは、もうやめよう。

まわりに理解されなくても、自分で実感できることや、自分のしたいことだけをやっていこう。

何の役に立つかをいちいち考えるのではなく、それ自体を楽しもう。 

趣味というのは、たとえ何の役にも立たなかったとしてもそれ自体に夢中になれるようなもののことだ。そうした趣味を見つけられると人生が豊かになる。

本を読むことで知識が増えるとか、スポーツをやると健康になるとか、そういうのはそれ自体に夢中になってやっていれば、自然と後からついてくるおまけみたいなものだ。

そんなに楽しくないけど、何か別の目的のためにやるという感じだと、そういうものは結局長続きしない。

人間のなかには自分の弱点を長所としてしまった人もいれば、一生涯自分の弱点にとらわれて悩み続けて自分の人生を台無しにした人もいる。 

北風で自分を鍛えた人もいれば、一生北風にさらされる自分を憐れみ続けた人もいる。

ゆずらなくてもいいことを勝手にゆずっておいて憂鬱になる人もいる。自分にできることをしないで、できないことに憧れるだけでブツブツいって年老いていく人もいる。

自我の基盤が強固である人と脆弱である人との違いである。

自分を実際以上に見せることの危険は、それによって実際の自分を自分が嫌いになるということである。 

われわれは自分を実際以上に見せることによっていよいよ実際の自分に自信を失う。いよいよ実際の自分を自分が軽蔑するようになる。

実際の自分に自信があれば、何も無理して自分を実際以上に見せようと努力などしない。実際の自分を自分自身が尊敬できないからこそ、他人に向かって自分を実際以上に見せようとするのであろう。

実際の自分以上に自分を見せようとすることで、実は実際の自分を自分が卑しめていることになる。

リラックスしていたほうが声もよく出るし、運動もよくできる。緊張すれば歌もスポーツも駄目になる。 

だからといって、怠惰なのが声を出すのに一番よいわけではない。

力を抜くところでは力を抜き、力を入れるところでは力を入れることが必要である。

ベストコンディションなどというものはあるはずがない。いつもないのが当たり前であって、ベストコンディションのほうがまれなことなのである。

スランプも実力のうちなのである。 

休養も練習のうちであることを忘れてはならない。

スランプの自分は何か本当の自分でないように感じている人がいるようである。決してそうではない。

あるがままの自分を受け入れることのできる人ほど、やがて大きな仕事をする人である。

うろたえたり、あがったり、あせったりするのは、「本当の自分はこんなではない」という気持ちがあるからである。実力が自分の思うように発揮できない時、あがるのである。

スタートラインに立つところで、心身ともにヘトヘトになっているようでは、この先の人生はやっていけるはずがない。初歩や入門の段階で苦労している人が、プロとしてやっていくことは、自他ともに不幸な人生の始まりだ。
世間体を気にするあまり、我慢して大嫌いな仕事で成功してしまったら、この先の人生は、ずっと嫌いなことだけで埋め尽くされる。

理想と現実の間に存在するギャップ は、「絶望」などでは決してなく、未来のあなたの進むべき道を煌々と照らし出してくれる、あまりに温かい「希望の光」に違いないものなのです。

「健全な劣等感」とは、 理想の自分と現在の自分を比べて、そこに到達できていない自分の姿を省みて、悔しがる。というものです。

他人の評価や成果なんて、また過去に起こったすべてのことなんて、一切関係ないのです。 

問題は、あなたが これから日々、 何をなし続けるか、ただそれだけなのです。

本当に納得のいく決断とは、人に誘導してさせられるものではない。

自らの意志で決断したものこそが、相手にとって真に納得のいく決断なのである。

努力の日々において、人からどう見られているとか、どう思われているとか、過去にこんなことがあったなんてことは、まったく関係ない。

私たちは、多少のレベルの違いこそあれ、ダイヤモンドの原石に似ています。

精密なカットを施すことでかたちが整い、磨けば磨くほど輝きを増し、人を引きつける魅力が生まれます。

自分の限界は自分自身で決めるもの。 

本当の自尊心とは、自分を克服して初めて得られ、そこから自由がもたらされるのです。

忍耐力を鍛えることは筋力トレーニングに似ています。鍛錬するほどに忍耐力は増します。

問題は取り組むものではなく、乗り越えるもの。

私が競いたいと願う者は私自身。 

したがって勝者はいない。

あるのはタイムの差異のみ。

素晴らしい夢を見た者は、それに自分の時間を費やしたことを決して後悔しないものだ。夢を諦めてはいけない。

苦労は力になる。 

悩みは智慧になる。

悲しみは優しさになる。

いちばん苦しんだ人が

いちばん幸せになれるのだ。

“ここまでやればいい”という到達点はない。

過去にどれだけ頑張ったかだけではなく、「持続」することが不可欠である。

「ちょっとの差」なんて気にしない。 

それは、しょせん「どんぐりの背くらべ。」

むしろ大きな差を努力目標にする。

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