冬は必ず春となる④ 覚悟

今回の手紙は、文永9年(1272年)2月、日蓮が51歳の時、流罪地の佐渡で執筆し、天台宗の学僧であった最蓮房(生没年不詳)に送ったとされています。本書の題字でもある生死一大事血脈について質問をしたことに対する返書です。

生死一大事血脈抄 本文

臨終只今にあり 

 

現代語訳

いつ死ぬかわからないものだ。

 

解説

人は誰しもが「いつか」自分は死ぬということを知っています。しかし、「いつか」であって遠い未来のことだと考えていませんか。青年はもちろん、老人でさえ自身の死から目をそらし、人生・そして生老病死と向き合おうとしない人がほとんどでしょう。いつか頑張ろう。これが終わったらやろう。などと思っていると、あっという間に年月は過ぎ去っていきます。しかし誰しもが突然、事故や病気などで健康を奪われ、親しい人と突然会えなくなってしまうかもしれないのです。そしてそれは「いつでも」自分の身に起こりうるのです。一生はゆめの上 明日をごせず(人間の一生は夢の上の出来事のように儚く、明日の命も分からないようなものである。四条金吾殿御返事)とも言葉を変えて日蓮は書き記しています。

たとえ死が3日後であっても、3年後であっても、30年後であっても本質は今この一瞬の積み重ねに他なりません。今と真剣に向き合い、自身の人生を深く肯定して臨終を迎えられるか。それとも後悔と自責の念で人生の終幕を迎えるのか。どちらが充実の人生であるかは明白です。生物にとって、死ほど確実にわかっている未来はありません。どんなに無限の富や権力を手に入れようとも、死からのばれることは絶対にできません。それゆえに人生には、生死ほどの一大事はありません。ほかは全て小さなことでしかないのです。このことに死の瞬間になって初めて気が付くのでは遅すぎます。だからこそ、臨終只今にありと心に常に留めておくことは非常に重要なのです。 

日蓮は信徒がよりよい人生を送れるようにと、庶民にも分かりやすい表現や、多様な例え話を用いて手紙を通して激励を続けました。覚悟について説いている手紙の一例を紹介します。

一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ(一生をむなしく過ごして、最期になって後悔するようなことはあってはならない。富木殿御書)。

いかなる事ありとも すこしもたゆむ事なかれ(どのようなことがあっても、少しも弛んではならない。兵衛志殿御返事)。

一日の命は三千界の財にもすぎて候なり(一日の命は全宇宙・全世界のすべての財を足したものよりも、優れているのです。可延定業書)。

命と申す物は一身第一の珍宝なり 一日なりともこれを延るならば 千万両の金にもすぎたり(命というものは、わが身にとって第一の珍しい宝である。一日でも寿命を延ばすことができるならば、一千万両の金よりも尊いことなのです。可延定業書)

人身は受けがたし 爪の上の土 人身は持ちがたし 草の上の露 百二十まで持ちて 名をくたして死せんよりは 生きて一日なりとも 名をあげん事こそ大切なれ(人間として生まれてくることは難しいことであって、爪の上に乗っているわずかな土のように稀である。また、人間として生まれたとしても、その身を保つことは難しく、草の上に乗っている朝露がすぐに蒸発してしまうように儚い。たとえ120歳まで身体が持ったとしても、悪い評判を残して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげることこそ大切である。崇峻天皇御返事)

 

人生の価値は生きた時間の長短で決まるものではなく、その日々は無駄にしてはならないという力強いメッセージです。限りある一生という人生の時間を使って何を残したのか。どのような価値を生み出したのか。どれだけの人を幸せにしたのか。それが人生の充実度を決めるのです。

「名をあげる」生き方とは、世間的な名聞名利を求めることを指しているのではなく、仏法の哲学で自身を磨き、人のため社会のために尽くしていく生き方を実践することを指しています。現代の視点でいえば、自分の軸を貫き、意義ある一日を生き抜くことが大切なのです。その積み重ねが「どう生きたか」を決定づけるのです。

人間の寿命は、平均27375日だと言われています。今までの人生の中で、あなたの記憶に残る日は、何日ありますか。あなたは、何を成し遂げ、どう生きた人物として記憶されたいですか。

意識していなければ、特別な日以外は自然に過ぎ去っていってしまいます。命はかぎりある事なり(命には限りがあるのです。法華証明抄)ということは忘れてはなりません。

冬は必ず春となるシリーズ

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