勤労収入へと課税は強制労働と変わりがない。
「この人は頼りになるな」「役に立ってくれたな」人にそう思われてはじめて仕事になる。
世間でよくありがちな人脈術などというのも同じことだ。たとえば「誰と知り合えば自分のビジネスが有利になるのか」「どの人間と仲良くすれば、おいしい話があるのか」など、ひたすら自分のことにしか目がいっていない。これでは趣味である。仕事ではない。
そもそも仕事の評価は自分でするものではない。それが仕事である以上、他者に評価されてこその仕事だ。
「言われてみれば当たり前」ということは「言われるまで分からない」。
既存のシステムやルールにはそれが存在する理由が必ずある。既存のものを却下するためには、何よりもまずなぜそれが存在するのかをじっくり考えなくてはならない。
厳密に計画して実行を急いでしまうと、用意しておいた構成に凝り固まる。視界にふっと現れるかもしれない創造の可能性を排除してしまう。要するに急がば回れである。
世界を変える可能性をもつアイディアを見つけるのはそれほど難しいことではない。イノベーションが困難な真の理由は「一から千を創り出す」プロセスを動かすのが難しいからである。多くの有能な人材がアイディアの創出を受けて市場化し、市場で成果を出すまで何年もの時間をかけて助け合いながら働かなければならない。ランダムに生まれるアイディアを市場での具体的な成果に向けて統合する。これこそがイノベーションに突きつけられた課題なのである。
弱さの開示という文化は「そもそも人はなぜチームを作るのか」という根源的な問いと深く関わっている。チームの目的は、それぞれが長所を発揮し、お互いに不足する能力を補完するためにある。全員が完璧な人間であれば、そもそもチームは必要ない。弱さを見せると相手も鎧を脱ぎ捨てて、安心して協力できるようになる。だから本来のチームとして動くことができる。
「発明王」と言われたトーマスエジソンが真の意味で巨大な存在だったのは、彼の仕事の目的が発明にとどまらずイノベーションを最初から射程に入れていたことにある。エジソンの代表的な発明である電球にしても、実用的な送電システムによる電力の供給がなければイノベーションとはなり得なかった。エジソンが設立したゼネラル・エレクトリックは発明なりアイディアをイノベーションまで昇華させる統合装置であった。ここまで踏み込んだところにエジソンのイノベーターとしての凄みがある。
成功企業のケーススタディとなるとすぐにビジネスモデルが注目される傾向がある。これはほとんどの場合、素人談義である。戦略はそもそも違いを作るためのもの。ところがビジネスモデルだけでは、競合他社との違いをつくるのは難しい。なぜか。同じ競争環境下では、合理的なビジネスモデルは往々にして一つか二つに絞られてしまうからだ。戦略=ビジネスモデルという見方は表面的に過ぎる。
順列ABとBAは等号で結ばれる。ところが意味が変わってくる。順列には時間軸が入っている。
今の時代、誰もが同じ情報を同じコストと同じスピードで手に入れることができる。真剣に商売をしているということではみんな同じだ。こうした状況で他社と違いを作ろうとしても、組み合わせだけではほとんど差別化の可能性はない。ところがそこに時間軸を入れて順列を考えればより攻め手のバリエーションが広がる。一見同じような持ち駒しか持ち合わせていなくても、違いを作る可能性が広がる。
ビジネスモデルというのは、映画に喩えればジャンルに過ぎない。コメディ、ラブロマンス、アクション、シリアスドラマといったジャンルを挙げるのは容易である。しかし、あるジャンルが他のそれよりも優れているわけではない。アクション大作のヒットが続いているからといって、「じゃあアクションものでいこう」と決めても、成功を約束しないのは言うまでもない。同じアクション映画でも、厳然として面白いものとつまらないものがある。ジャンルを網羅的に知っても、面白いストーリーが作れなければ意味がない。戦略ストーリーが面白いかどうかは、収益や価値創造の背後にある論理にかかっている
人間は「技術」というものを我が身に備えます。その「技術」は、ただ備えただけでは意味を持ちません。人間には、「技術を適用する」ということが必要とされます。「技術」の獲得には時間がかかって、「技術の適用」には、ためらいと挫折がつきものです。それは当然のことで、だからこそ、人間の「ものを作る」には時間がかかります。「いいもの」というのは、その、時間とためらいと模索の結晶で、だからこそ、昔に作られたものには「いいもの」が多いのです。
簡単な真理とは、「いいものは簡単に作れない」で、「時間をかけて作られたものは、それなりに”いいもの”になる」です。時間をかけても、「作ることに失敗したもの」は、「もの」になりません。「ものになった」ということは、それ自体で既に「いいこと」で、そのためには、それなりの時間がかかります。ものを作る人間は、時間というものを編み込んで、「作れた=できた」というゴールへ至るのです。
いわゆる外資系企業では、外国人のトップが会社でいちばん早く出社するという。たぶん彼らは一分遅刻しちゃうからと、走ったりはしないが、決められた出社時間より一時間早く来て仕事をすませたりはする。
たぶん、時計は決められた時間のためにあるんじゃなく、自分のためにあり、すべての時間は自分が作っていくという発想なのだろう。”時間を守るための努力”はしないが、「目的を果たすための努力”はする。」そういう違いがあるのかもしれない。
いろいろな県に行って「この県の”らしさ”ってなんですか?」と聞くんですけど、みんな考えてるんですよ。観光課がうたっているその県らしさみたいなのはあるんですけど、それは刷り込まれているだけで、自分たちが住んでいる土地らしさは、あらためて聞かれないと考えない。ふつうだから、ふだんは気づかないんですよね。ということは、本当の幸せには気づけないということですかね?
AIが囲碁や将棋で人間に勝ったとか言うんだけれども、新幹線だって人間よりも早く走れる。それこそノコギリだって、昔から人間が到底切れないものを切っていたし。ブルドーザーだって、あれだけの土を人間は運べません。機械的道具には常に人間を凌駕するものがあったんです。なのにAIだけが特別扱いというのはどうかなと。
今後AIがどんどん進歩していったとして、擬似的かもしれませんが、ある意図をもつとか、なんか目的を設定するようになったとしますよね。でも、それをありがたがるというか、それに意味を感じる人って「弱い人間」だけじゃないかなと。自分でそんなに目的意識がないとか、自己認識が緩いとか。サジェスチョンに頼るということは、その程度のことしかできない人ということですね。
人は皆ユニークな存在であることは疑いようのない事実だ。しかし個々人の差や違いに経済的な価値が生まれるかどうかは全く別の問題である。
差が区別されてはじめて価値が生まれる。
「なぜそうなったか?」を考えて意味があるのは、その後の結果に納得がいかない時だけです。「なぜかは知らないが、これはこれでそういうもんだから、これでいい」と思っている時は、「なぜそうなったか?」は、どうでもいい問いなのです。
魅了され、影響されたものと一つになるような、同一化への道を歩く。これは、「カッコいいと思った人間の真似をして、自分もカッコよくなったと思う」というのと同じです。当人は「カッコよくなった」と思っている。でも、はたから見たら、それは「似合っていない」でしかないかもしれないのです。
現状に不満があったり、自分の将来に対する不安もあったり、若いときって、いつの時代もそうじゃないですか。そんななか、いつの時代でもみんな仕事をしながら仕事に対する自分なりの考えや構え、大げさに言えば仕事哲学みたいなものをつくっていくんですよね。
人間の状況評価には遠近の歪みがある、
近いものほど粗が目立ち、遠いものほどよく見える。メディアは日本の状況がいかに悪いかを論じる記事を先日発信する。
カネとエネルギーに溢れる中国はダイナミックに成長し、アメリカではシリコンバレーがイノベーションを次々に生み出している。それに比べて日本の閉塞感と体たらくは何だ。
それはそうなのだが、中国だろうとアメリカだろうと、どの国でも近くで見てみれば問題山積というのが実際のところ。シリコンバレーにもヒドイ会社はいくつもあり、社会的な問題も満載なのだが、そう言う話は滅多に出てこない。
これは空間的な歪みの例だが、時間軸でみると遠近の歪みはさらに増幅する。「いまは最悪、昔はよかった。」に人々の評価は流れる。
時間的な遠近な歪みはメディアによるところが大きい。しかし、これにしても人々の需要の産物である。現状を悪く考えるのは人間の本性といってよい。「邪悪な時代がやってきて、世界は険悪となった。政治は腐敗した。子供たちはもはや親を尊敬しない。」紀元前3800年の碑文である。
大切なものほど事後性が高い。逆に言えば、役立つことが事前に容易にわかっていることにはたいした価値はない。すぐに役立つものほどすぐに役立たなくなる。事後性の克服は人生の一大テーマといってよい。
ではどうするべきか。それは読書しかない。本は事後において書かれている。読書によって、人は事後的にしか知りえないことを知ることができる。
王朝の貴族の男達はいくらでも日記を書いていますが、それは「文学」として扱われません。王朝の時代のありようを記録する「史料」として存在します。女達の書く日記が「文学」として扱われるのとは大違いですが、男達の書く日記は、「あってしかるべき”らしさ”」つまり、儀式性を記録するものだから、仕方がないのです。
「工芸」と「デザイン」との境目が曖昧な事など最初からわかっていた。しかし、作家自らが製作者であり、手で作り出す物などは「工芸」といい、作家自らが製作せず、機械も使い、量産もする物は「デザインされた物」などという、明白な違いがある事も事実だった。
身分の高い家の男は、「身分の高い家相応」を装います。それは「華やぎ」ではなくして、「相応を演じるための義務」です。はたの目がどうであろうと、社会の中で「自身に与えられた相応」を演じるだけの男に、「華やぎ」の実感はありません。
雑用をそのまま雑にやると、これ以上つまらないことはない。雑用をゲームとしてサプライズとして楽しんでしまえばいいのだ。
誰か一人に気付いてもらえるように、ひと工夫するのだ。仕掛けを用意するのは、ただ漫然と雑用をしていてはできない。結果としてミスも減り、自分の楽しみが増える。
こうして雑用の苦痛を感じなくなった頃、あなたはもう雑用をさせてもらえなくなる。
人の失敗からは学べません。人の振り見て我が振りが直るならこの世から戦争はとっくになくなっています。
なぜ、人の失敗から学べないか? それは失敗には痛みが伴うからです。どんなに痛いかは失敗した人にしかわかりません。 失敗の本質を見極めるのは難しいことです。
この「痛み」と「なぜ失敗したか?」、これが失敗の本質 です。この2つがセットになってノウハウになります。
契約書のない仕事はご法度です。親しき仲にも礼儀ありです。
どんなに近い関係でも口約束での仕事はしてはいけません。
僕も最初の頃は口約束で仕事をして痛い目に遭っています。反対の立場の時もありました。納品物がまったく発注と違うのにお金を払えと言われました。
相手は「邪魔くさい」と言いながら心の中では「コイツはしっかりしとる」と思ってるから大丈夫。
大切なのは、 計画はシンプルに作る こと。そうでないと実績評価もシンプルにはできません。計画も実績評価もシンプルであれば、誰が見ても成功してるのか失敗してるのか一目瞭然です。KPIもそうですが、あれもこれも管理しようとすると複雑になって、それらの数字が何を語っているのかわからなくなります。
多角化なんていうのは本業でしっかり儲かっている会社の戦略です。
スタートアップは儲けるところを1つに絞り込んでそこでがんばる。これしかありません。
「キャッシュポイントは何ですか?」「広告です」「それだけですか?」「はい。それだけです。それだけで十分儲かります」こんな事業が強いのです。
雑貨をメインにするならば、お客様サービスでコーヒーを出す程度にとどめる。
きっぱり割り切ってください。決してコーヒーの売上をあてにしたらあきません。
世の中にはカフェ1本で勝負してる店がいっぱいあります。彼らはスペースがあれば1席でも多く椅子を置きたいのです。寝ても覚めてもおいしいコーヒーのことを考えています。中途半端なカフェが勝てるわけがありません。
多量のインプットにより、今まで知らなかったことを知るようになり、広い地図が手に入る。良質のインプットにより、読解力が身につくから詳細な地図が手に入る。
過去二万年を経て、人間の脳は小さくなりました。二万年前と比べて、一五%小さいんです。これって、皆さんが想像していたことの反対じゃないですか?将来、脳はどんどん大きくなると思っていましたよね。でも、実際には反対のことが起きている。
二万年前のことを考えてみて。きっと一人ひとりが生存する方法について考えていましたよ。食べ物を集めるとか、その準備とか、動物を追いかけるとか、何かを感じるとか。生きるために必要な情報は全部記憶しなくちゃいけなかった。
でもその点で言えば今の私たちは、完全に役立たずです。みんな他の人の情報にアクセスして、”のぞき見”しながら生きていますからね
「はたらけどはたらけど猫わが生活楽にならざりぢつと手を見る」……と詠んだのは明治時代の石川塚木だったけれど、現代でもやっぱり、はたらけどはたらけど、暮らしは楽にならない。
それどころか、私たちは本を読む余裕さえなくなっている。暮らしは社会の格差を反映するし、その暮らしは本を読む時間すら、手に入れさせてくれない。
頑張れば、日本が成長し、社会が変わるー高度経済成長期、あるいは司馬遼太郎が描き出した日本の夢とは、このようなモデルだった。
それはある意味<政治の時代>の世界観だったのかもしれない。民主主義の名のもとに、民来が投票した結果を反映して社会が変わる。あるいはデモなどの活動によって社会を変えることができる。政治を倍じられる時代は、民衆も社会参加できる、という実感に支えられている。
たとえばフルタイムで働いている男性が育児に関わろうとすると、「育児休業」を取れ、と言われるでしょう。しかし本来、育児は子どもが家を出るまで十数年以上続きます。が、労働と育児を両立させる働き方の正解は、いまだに提示されていないのです。
あるいはコロナ福を経て、政府は副業を推奨しています。しかし週5フルタイムで働いている人がそれ以外に副業をしようと思ったら、過労になりかねないはず。なぜ私たちはフルタイムの労働時間を変えずに、副業を推奨されているのでしょう?
現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にすることで成立している。
だからこそ、労働と文化的生活の両立が難しいことに皆が悩んでいる。
なんとかしよう、と思うとき、私たちはよく、なにかの情報に頼ります。たとえば私は、育児に悩めば育児本を、仕事での時間管理に悩めば自己啓発本を・・・・・というように、誰かが実践している「理想の生活」を真似することで、自分の状況をなんとかしようと思うのです。
しかし、こうした書籍の与えてくれる知恵を、なんのアレンジもなしにそのままやろうとすると、挫折するか、あるいはできたとしてもとても疲れてしまうか、という感じで、まったく、「なんとかできた」感じがしないことが多いものです。では、私たちは「なんとかやっていく」ための戦術を、どこから探し出せばよいのでしょうか。
人間は日常の仕事の奴隷になっていた。
なぜわざわざ奴隷になったのかと言えば、その方が快適だからだ。
「なんとなく退屈だ」という声を聞かなくてすむからだ。
仕事のために人生があるのではなくて、人生を楽しむために仕事があるのだ。
労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。
労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせること。資本にとっては実はこれが最も都合がよいのだ。
ググればすぐにわかるような、誰でも手に入れられる無色で中立な情報に意味はない。
いかに自分なりの意味づけが乗ったアウトプットにできるかが大事なのだ。

