お酒落に無頓着で、どこか野暮ったい人は、多かれ少なかれ世間に背を向けていると言わざるをえない。人との関わりを軽視していると言わざるをえない。自分がどう見えてもいいという姿勢は、一見誰にも選惑をかけていないように見えるが、たとえば誰かに食事に招かれた時、お洒落のかけらもなく指定の店に出かけていくことは、どう考えても人に迷惑をかけている。
しかし、服のセンスはある部分、持って生まれた能力。センスがないのを責めたりすることはできないが、自分にセンスがないことに気づかないのも、気づいているのに努力もせずに放っておくのも、今は立派に新しい非常識”と考えてよく、そういう人は会話でも何となく、人と話がうまくかみ合わないはずなのだ。
今は10年前に想像した将来
うさぎとかめ。
うさぎはカメを見ていた。カメはゴールを見ていた。
個性がないから真似したがる
すべてのものが、それぞれの運命を持っているということは、本当です。しかし、その運命はいつか実現します。そうなったら、それぞれのものは自分自身をより良いものへと変えて、新しい運命を得なければなりません。
人は往々にしてノーマルのままそのものを使うということを考えない。携帯電話にはストラップを付け、オフィスの椅子には小さな座布団を敷き、美しいテーブルにもテーブルクロスをかける。車もノーマル仕様よりはいろんなオプションが付いたものの方に人気がある。太いタイヤを履いたり、車高を下げてみたり、ステッカーを貼ったりしたがる。今まで人はノーマルな仕様の車のデザインを疑ってきたのかもしれない。スタイルに自信がないから着るものでそれを補うように、そのデザインを自分で補おうとしてきたのかもしれない。
高倉健の映画を見ていると、小さな街から去っていくシーンがある。荷物は小さなカバン一つで、住んでいた部屋は最低限必要な家具しかなく、きれいに片付いている。
静かに立ち去る時にトラックいっぱいの家財道具があっては絵にならない。それではかっこわるすぎる。自己の領分をわきまえることがミニマリズムであり美学である。
スタイルとは何か。ある人にはある。ない人にはない。とらえどころのない資質だが、人間の最も統合的な価値はその人のスタイルに現れる。スタイルとは見せかけの反対にある強い信念である。
五重塔の心柱がそうであるように、揺れに対して素直にたわむことができる。心が折れそうになるほど動揺することもある。苦悩による振動を柔らかく抑え、元のポジションに戻してくれるのが心の柱だ。
嬉しい時は嬉しい方へ、悲しい時は悲しい方へ、いくら傾いてもかまわない。柱の揺れ幅は人生の豊かさに他ならない。
一つしか有効な手段が存在しないのであれば、それは「追い込まれている」のであって、戦略ではない。複数の代案を優先順位付けした後に選び取られた何かが戦略であり、したがって戦略とは「何をやらないか」を決めることにある。
「何をするか」を決めるのが戦略ではない。「何をしないか」を決める、ここに戦略的意思決定の正体がある。北に行こうというのではなく、南には「行かない」。このトレードオフの選択があってこそディファレントになり得る。
インセンティブがあれば人は努力する。しかし、裏を返せば、インセンティブが効かないと努力もしなくなってしまう。ここに問題がある。インセンティブには即効性がある。しかしすぐに役立つものほどすぐに役立たなくなるのが世の常だ。
アメリカは個人主義的でユニークな自己表現が受け入れられる土地柄だ。しかし蝶ネクタイをつけたり、真っ赤な靴を履くことはオリジナリティとは関係ない。うわべだけオリジナルに見せているだけだ。
実際は、うまくやろうとしすぎるあまり、もしくは失敗を恐れるあまり、まわりに合わせることを選ぶ人が圧倒的に多いという。要するに、コンフォーミティの圧力が強く働くのは国や地域を越えて人間社会の常なのだ。本性は時間を超えて変わらないだけでなく、空間的にも実際はそれほど変わらない。
「手段が目的」。登山に喩えれば、山頂を征服することよりもその道のりの方にこそ価値がある、というわけだ。いってみれば柔道や茶道などの「道」を感じさせるもので、日本人には馴染み深いかもしれない。こうした哲学が「量を計ることも買うこともできない抽象的な要素」としてのブランドの原動力となっている。
誰も知らない。が、見ればそれと分かるのがスタイルだ。とらえどころのない抽象的な資質で、持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない。見せかけの反対で、人格が知らず知らずのうちににじみ出たもの。本物たらんと意識的に努力しなくとも本物たりえている人間が持っているものである。
「無個性」は「つまらない」のとは、違う。主役の味を引き立てる物を「ふつう」と呼ぶのかもしれない。
レトロは、普遍の変わらないよさ
世界は常に動いているから、今この瞬間は今しか体験することができない。リアルな体験はアーカイブすることはできないし、クリックしてリピートすることもできない。
だからこそ、家のドアを開けて、旅に出よう。
経済的に豊かだけど心が狭いという人はあまりいない。真の豊かさは正しい心の在り方があってこそ手に入るものだ。
マナーは、本来聞りの人を不快にさせないためのものである、そのマナーを知っていることで人より優位に立つのではなく、知っていることで周囲の人を心地よくさせるのがマナー。
ほとんどが見た目の興味を引く特別なかたちをデザインしようとして醜くなる。
所詮、人は人と言葉でしか関われない。
努力が見えるのは恥ずかしい。それはエレガントではない。
幸福の秘密とは、世界のすべてのすばらしさを味わい、しかもスプーンに乗せた油のことを忘れないことだ。
本当に起こっていることではなく、自分が見たいように世の中をみていたのだ。
僕は宝物を探している冒険者なんだ。
いつか今朝のこともただの思い出となるだろう。しかし大切なのは今という時間だった。彼は過去の教訓と未来の夢と共に今に生きたいと思った。
夢の追求の過程で、彼はやる気と勇気を常にテストされていた。あせってもいけないし、いらいらしてもいけなかった。もし衝動にかられて先を急ぐと、道すじに置かれたサインや前兆を見落としてしまうだろう。
もし良いことが来るなら、それは嬉しい驚きということになるだろう。もし、悪いことが起こることになっていて、それを前もって知っていたら、おまえさんは、まだ起こらない前から、苦しまなければならないだろう。
お前は自分の心から、決して逃げることはできない。だから心が言わねばならないことを聞いた方がいい。そうすれば、不意の反逆を恐れずにすむ。
傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいことだ。
自分の内にすばらしい宝物を持っていて、そのことを他の人に話したとしても、めったに信じてもらえないものだ。
おまえは夢を実現する途中で死ぬのだ。それでも、自分の運命が何か知りもしない何百万人よりかは、ずっといい死に方なのだよ。
普通、死の脅威は、自分の人生について、人に多くのことを気づかせてくれるものだ。
ファッションというのは他人に見せるものだから、他人への圧であることはたしかなのだ。どんなに好きなものを身につけていても、それが好きな私です、という自己紹介にはなってしまうし、どうやってもそのことを加味したコミュニケーションが行われる。かわいい服を着ている人にはパンケーキ食べに行こうかというのに、大人っぽい服を着ている人にはむしろお酒のほうがいいのかな?と勝手に推測してしまう感じ。そしてそれをどこかで許している空気がある。だって服は顔とか体型と違って、ある程度自由にえらべるものだから。
所有、それはどこからか付与された権利によって構成されるものではなく、ある特定の仕組みに依拠した一つの主張にすぎない。
広告は消費者の「個性」を煽り、消費者が消費によって「個性的」になることを求める。消費者は「個性的」でなければならないという強迫観念を抱く。
問題はそこで追求される「個性」がいったい何なのかがだれにも分からないということである。したがって「個性」はけっして完成しない。
つまり消費によって「個性」を求めるとき、人が満足に到達することはない。
エレガントな生き方とは、なんでしょう。いくらお金をかけて上品な身なりをしていても、それは表面的な意味でしかありません。一方、知性や感性やユーモアは、けしてお金では買えない宝物です。人生を楽しむ自由な感性とちょっとの知恵こそ身につけるべきです。
エレガンスとはなんでしょう。それは、人生を美しく生きること。
厚くしていくものは、見た目より「中身」だったなと思ったのです。
昔から、動物のはく製をなんだか怖いと感じていましたが、見た目がどんなに美しい毛並みでも中身のないものからは、美のエネルギーが伝わってこないのです。
会った瞬間からなぜか惹かれる人は、内面から魅力がにじみ出ています。
そういう人は、他人が見ている見ていないにかかわらず、自分を磨く小さなクロスのようなものを持っています。
心が「洗れたな」「曇ったな」と感じたら、さっと磨きます。時間が経てば、その汚れはしみついてしまうと知っているからです。このひと手間を面倒がらずにやれることが「品格」を育みます。
毎日を丁寧に生きるとは、心に小さなクロスを持ち続けることかもしれません。
悩んだり、迷ったりしている時点で負けているようなものだった。これは人生も同じで、人生は淡々とやるべきことをやり続けた人が最後はうまくいく。
そう考えると、いちいち悩んだり、迷ったりするのは意味がない。
適切な環境に行けば、やることは一つ。暑い環境に行けば、取るべき行動は涼しい所に行くだけ。最善の選択ではなく、選択を最善にすること。
人は意識しないと、年や価値観の近い人としかつき合わない。私がいつも意識しているのは、自分と違う人たちと関わることだ。だから人生はいつも新鮮だ。
センスや判断力のない人間にとって、うんちくは権威なのだ。
たとえば、ヨーロッパ風の高級感のある部屋を目指していて、古そうな感じの装飾があり、アンティーク風なんだけれど本物のアンティークではないテーブルとか、シャンデリアっぽい照明とか、中途半端なアイテムを集めてそれっぽくしようとすると、かえって本物ではないことが目立ってしまう。そのときに、妙に感じられるのは、高級感を目指しているというより、そこに染み出してしまっている生活感ではないかと思います。
ニセ高級感みたいなものも、記号にとらわれているわけです。
つまり意味にとらわれている。アンティーク風だけれど本物のアンティークではないテーブルとは、「アンティーク風」という意味がメインであって、そのテーブル自体が十分に肯定されていない。本当だったらアンティークが欲しいのに、その代わりとして存在している。だからそのテーブルは、「半分だけの存在」みたいなもの。だったら、同じ安価なものでも、それ自体として肯定できるものを買ったほうがいいのでは、と思います。
センスの悪さは、不十分な再現性、つまり再現性にとらわれすぎている。
「絵を描くセンス」と言うと、白紙の上に線を走らせて、ゼロから作り出すセンスが問われていると思うかもしれません。けれども、何もない状態から作ることは、美術でも音楽でも、ありません。知っている作品とか、見たこと聞いたことがあるもの、何か印象などの素材があって、それを記憶からなんとなく選び、組み合わせて変形し、そこから飛躍させて作品にするわけです。創造行為の根底には、「選ぶ」ということがあります。
この絵にはどんな意味が「ある」のかとつい思ってしまうことからも明らかですが、人はあるなしの問題に引っ張られ、あるなしの切り替わり=ビートによって、喜んだり不快になったり、ということが多い。何が起ころうが、それを人生のうねり=生成変化として楽しむ、というふうにはなかなかいかないし、それはある種の達観みたいなものでしょう。
遅延とは、行動の多様性である。人間はそれを誇りに思い、つまり自分は自由であるという意識を持ち、その余裕を楽しみます。
ある特定の形にこだわる画家がいれば、ある響きにこだわる音楽家もいる。それは絶対のものではありません。人によって違うわけです。ですから、芸術になじむには、いろんなアーティストのいろんな作品を見ることが大事です。ものを限定するやり方にはいろいろあるということ、つまり、「有限性の多様性」がわかるからです。それによって自分の生き方が柔軟になっていく。自分の生活においても、楽しみを見出せるポイントはもっと多様だということに気づくでしょう。
個性というのは、100人いれば100通りに多様ではありますが、ひとつの個性は純粋にオリジナルなものではありません。個性には、人生において見聞きし、それをモデルにして自己形成するところの、いろんな典型性ーステレオタイプ、テンプレート、クリシェなどと言い換えることができるーの反復が含まれています。典型的なものとの関係なしに主体となることはできません。
ものごとには旬がある。
食べ物だけではない。そのときに読むべき本、観るべき映画、聴くべき音楽などだが、そのなかに旅もある。
そのときの旬は、そのときの自分にしかわからない。自分の心身に向き合い、旬の旅に出かけたい。そこにはきっと、自分だけの感動がある。
できるだけ早くから、自分の生き方をデザインすることが、とても大事だと思っている。
自分はどんな人生を歩むのか、という大方針を早く持った方が良い。
人々の流れに身を任せて生きていく、と決めたのなら、それも良い。否、そもそも良い悪いの問題ではない。各自が勝手に、自分の好きなように生きればよろしい。そして、自分が思い描いたとおりに生きることができれば、これこそ最高だろう。それが、自由というものの定義でもある。
自分が楽しめるもの、自分が面白いと思えそうなものを、どんどん試してみることをおすすめする。その経験を積み重ねるうちに、自分は何が好きかが、だんだんわかってくる。一つ楽しいことが見つかると、つぎつぎと関連したものに興味が湧き、もっと大きな楽しみができるはずである。
そういった体験が、自分にとって何が価値があるのか、を理解する元になる。「価値」を知る体験こそが、価値を生むのである。
人はつい他者と自分を比較してしまう。自分はこんなに我慢をしているのに、あいつはどうして好き勝手なことができるのか、というやっかみを持つことが多い。これは結果のほんの一部だけを見て、不平等だと感じているわけだが、そういった結果が現れるのには、苦労や時間がかかっている点を見逃している。わざと見ないようにしている、といっても良い。
世の中には運、不運はあるけれど、これは偶然のばらつきであり、おしなべて見れば大差はない。それよりも、個人の工夫や努力が結果に大きく結びついている方がはるかに多いのである。
自分を良く見せたい人というのは、本当はそれほど良くないから、引け目を感じている。
そのコンプレクスがあるから、背伸びをして、人から馬鹿にされないように、と考える。それが、偉そうに見える態度になる。
いろいろな今までの人生のなかで自分はつくられてきたのである。さまざまなことに自分なりに反応して自分を作り上げてきた。
それはあくまで、作り上げてきたものであって運命的に決定されているわけではない。
今、新しい環境の中で新しい反応を示すことによって、新しい自分ができ上がるかもしれない。
だからこそ、自分にレッテルを貼ってはいけない。
自分を決めてしまってはいけないのである。
希望を持つことは人間であることの根本的条件である。
人間がすべての希望を捨てたら、人間性を捨てたのと同じである。
自分の人生を諦めたとき、それは一切の可能性の放棄である。
人間は「自分はこうだ」と思っていることと、だいぶ違っているかもしれない。自分は人間嫌いだと思っていても、本当は他人と一緒にいることを楽しめる人間かもしれない。そのような能力が開発されていないから人付き合いが下手だと決め込んでいるだけかもしれない。
何ごとについても、決め込むことは避けなければならない。自分についても。人生についても。
自分知らずになるぐらいなら
世間知らずと言われる方が余程マシだ。
偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される。
自分の願望、そして満足も劣化するし、対象物も劣化する。ただし、夢は劣化しない。目的を目指して進んでいる人の中で、夢はむしろ大きく育つ。ということは、借金をして望みを早く叶えて、すぐに飽きてしまうよりも、貯金をして、しばらく夢を後回しにした方が、高い価値を得ることになる可能性が高い。結局は、その方が得だ、といえる。
お金が貯まって、貯金の金額が増えることなどは、一時的な仮の状態であって、最も自分の満足に近い時間というのは、お金が減るときなのである。そう考えていれば、回り道をしてお金を増やすことに頭を使おうとは考えない。
お金は、自分の満足と交換するためのものであり、価値があるのは、その満足の方なのである。
価値と交換することができるもの、価値を一時的に置き換えて、保留できるもの、なのである。社会が、それを約束している。何故なら、価値を貯めたり、タイミングを合わせたり、あるいは別の価値に乗り換えたりする自由度を確保するためである。
ただ生きるのではなく、善く生きよ。
「善く生きる」とは人生を愛すること。
なんかビミョー。と思ったら早めに抜け出そう。他人のペースに合わせる必要はない。
惰性に流されず自分に必要な部分だけ、つまみ食いするようにしよう。
自分のもっている才能──どんな小さなことでも、どんなつまらんことでもいいから──それを早くみつけて、ひたむきにのばしてゆくという姿勢が必要なんやないですか。
